高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2022年3月11日(金)

センバツ出場「大島」・・・に追いつけ追い越せ「徳之島高校野球部」

急な坂道を登り切ったサトウキビ畑の向こうに その「グラウンド」はあった。

九州と沖縄本島の間、 鹿児島県の離島、徳之島。今年1月、マラソン日本最速ランナー 鈴木健吾選手の取材のため強化合宿中の徳之島を訪れた。

鈴木健吾選手00000000.jpg

(徳之島)

合宿の拠点は島の北部、天城町で、そこには、シドニー五輪女子マラソン金メダルの 高橋尚子選手が強化練習に励んでいた「尚子ロード」があり、南国の気候と観光地化していない環境から実業団ランナー達の聖地となっている。

初日の取材を終えて向かった宿泊先は 島の反対側の徳之島町。島の人口約2万2000人の内、 半数の約1万人がこの徳之島町で暮らしている。

徳之島⑥.jpg

初めての徳之島。 夕方、散歩に出た。東シナ海を背にして町の中心部へ続く上り坂をたどってみる。すると上り坂の向こうに学校が見えた。楽器の音に導かれて正門前に着くと「全国高等学校空手道選抜大会34年連続出場!」と約10mの横断幕が誇らしげに掲げられている。

そしてベージュと茶色の落ち着いた雰囲気の校舎の壁には「鹿児島県立 徳之島高等学校」。

空手の強豪校・・・か。

徳之島0.jpg

(徳之島高校)

部活の時間だし、グラウンドを見たい。 この習性はもう治らないと思う。耳を澄ますと、遠くから大声が聞こえてくる。しかし正門からはグラウンドが見えない。声は、常時叫ばれてはいない。 不定期に、しかしいくつかの声が重なっている。サッカーか?野球か? よし、横から回り込んでみよう。

正面に向かって左側、一度学校から離れて回り込む道を探しながら上り坂を歩いてみた。

歩いてみたが、住宅地となり、 学校に近づいて裏道に入れば、行き止まりだった。

仕方なく元の上り坂に戻り、もっと先の回り込む道を探した。

坂がきつくなってきた。

「こりゃ激坂だ」 さっそくアプリで計測すると「15%」はある。ロードバイクの「ヒルクライマー」として、この習性も治らない。

徳之島④.jpg

(激坂を上っていくと・・・)

てっぺんまで行ってみるか・・・ 頂上付近で視界が開けた。

すると、見えた、「野球部」だ。 グラウンドだ。広いぞ。

その丘の上のサトウキビ畑の先には 野球場1面がのびのびと広がっていた。

徳之島1.jpg

(徳之島高校の野球場)

立派な球場じゃないか・・・今自分が立っているのはセンター後方のスタンドの位置にあたる。奥に見える「内野」は土で、手前の「外野」は天然芝。この時、ライトの位置にいるノッカーの打球を、 部員たちが左中間付近で順に受けている。

気持ちよさそうだな~ 野球部員は15人ほどか。

奥の「内野」では マウンドにいるピッチャーがくるっと振り向き、セカンドに投げた。 牽制球の練習だ。 1人、長身の左投げがいる。帽子が黒だ。 セカンド付近にいるのは白い帽子 ということは、彼がエースかな?

その向こうのバックネット下部にはグリーンのカバーがあり

「TOKKO PRIDE」の文字。

プライド.jpg

とっこう? そうか「徳之島高校」略して「とっこう」だ。

それにしてもグラウンド、貸し切りじゃないか・・・ というか学校のグラウンドだから当たり前だが、 ここで毎日練習できるなんてうらやましい限りだ。グラウンドの向こうには東シナ海の大海原が広がっている。 私は高校生じゃないが、とにかくうらやましい。

そうこうしていると 1人の女性が車から降りてきた。 部員の保護者のようで、ちょっと声をかけてみた。

「いい所でしょう?」「素晴らしいですね」 「みんな毎日、一生懸命練習してますよ」

そこへユニフォーム姿の大柄な男性が歩み寄ってきた。

「通りすがりの者ですが」と言いながらも身分を伝えご挨拶させていただくと 「監督の吉田です」と笑顔を返してくださった。

徳之島高校野球部 吉田公一監督。

ズバリ、とてもエネルギッシュで、 これぞ高校野球の監督という快活さをたたえた方で 島の高校という地理的なハンディなど 軽く乗り越えてしまうような勢いと温かさを感じる。 生徒がうらやましい限りだ。 私は高校球児ではないが、とにかく部員たちがうらやましい。

そしてこの3日後、春のセンバツの出場校が発表された。 全国の32校に吉報が届く中、 鹿児島県の「離島の高校」にも一足早く春が訪れた。

「大島高校」

なんと徳之島高校から海を挟んで隣の「奄美大島」の野球部だ。 去年秋の鹿児島県予選で初優勝を果たし、 九州地区大会で準優勝。 文句なしの内容で8年ぶりのセンバツ切符を掴んだ。

その様子に最も刺激を受けたであろう隣の島の「徳高野球部」が 1月下旬の練習から気合いの入った声を響かせていたのも納得だ。

「実は今、マラソン日本歴代最速ランナーが 島の向こう側で合宿していて、 愛媛出身の選手なので、取材に来たんですよ」 「ああ、あの『びわ湖』の人?」と吉田監督。

やはり「世界自然遺産」の徳之島。 みなさん、世界と戦う人に敏感だ。

徳高野球部、いつかあらためて取材させていただきます!

2022年1月17日(月)

「ああ 青春の優勝旗」よ永遠に ~水島新司さん安らかに~

突然の訃報は

まるで灼熱の甲子園に響き渡るサイレンのようでした。

漫画界の❝野球狂❞、水島新司さんが今月10日、

82歳で亡くなられました。

私は「ドカベン」で野球を学び、甲子園に憧れ、

自ら高校野球に青春を捧げた〝あの頃の野球少年たち"の一人です。

そして現実に直面し、涙を流し、それでもまだ野球に魅せられ続け、

今や息子にまで

「31巻は特にすごいんだ。土佐丸の犬神の腕が伸びて、

山田が死球を受けて、ブロックしたら犬神が吹っ飛んで、

殿馬が最後に長いバットを隠してたんだっ!」

(注:気にしないで先へ進んでください)

と「某カレーショップ」の本棚から手にした分厚い「31巻」を前に

畳みかける始末・・・。

そんな私は、おととしの暮れ、水島新司さんが「現役引退」を宣言された際、

思いの丈をこのブログに解き放っていました。

気持ち大先行の読むに堪えない駄文であること承知の上ではありますが、

最後にもう一度だけここに・・・_(._.)_

*************************************

【2020年12月30日 

 「さとるボールをもう1球」 水島新司さん引退に寄せて

2020年、全てが当たり前でなくなった年の暮れに

心からの感謝の思いをこめて―

       *   *   *

「深紅の大優勝旗は、はりまや橋を渡るんだ」

「犬飼小次郎」が投じた渾身の一球を、

ついに捉えた「山田太郎」のフルスイング。

そして打球はピンポン玉のようにスタンドに運ばれると、

「岩鬼」が吠え、「里中」が涙し、「サチ子」が跳ね、

「じっちゃん」の背中が震えて...

ああ、野球という競技のなんとドラマチックなことよ。

仲間たちと、ライバルと、そして家族の絆。

そんな記憶を忘れずにいてくれた自分の脳にも感謝(^^)/

     *       *      *

           『ドカベン』

     *       *      *

本当にありがとうございました。

幼い私に「野球」の素晴らしさを教えてくださって!

             *

今月1日、野球漫画家の「水島新司さん」が

引退を発表されました。新潟市出身、81歳。

現役63年の鉄人が、ついにペンを置かれました。

本当にありがとうございました。

幼い私に「野球」の厳しさを教えてくださって!

***************************

「白新の不知火」...

義眼を見抜いて里中にカーブを要求した山田の観察力と、

後に同じボールをスタンドインさせた不知火の執念。

3塁側スタンドから 「父さん」が

フェンスを飛び越え「でかしたぞ守!」のシーンは

今思い出しても震えますよね。

***************************

「東海の雲竜」...

"豪打・真空切り"には度肝を抜かれましたが、

巨体に似合わずライトの守備も一流で

秘密兵器として自らマウンドに上がれば剛速球。

そんな豪快キャラも後に「サチ子」の前では

いじられキャラで好きだったな~。

***************************

「横浜学院の土門」...

自分の球が凄すぎて受けられるキャッチャーがおらず、

全力を出せないという設定にまいりました。

そんな不遇にも愚痴をこぼすことなく、

歩いて歩いて、探して探して...そう、キャッチャーを。

そして「谷津吾郎」と出会い、「前略、土門さん」と

バッテリーを組むまでのくだりは心を鷲掴みにされました。

***************************

他にも、ガウンの下でダンベルを握り続けていた

「甲府学院の賀間」や、記憶喪失の「代打山田」に対し

伝家の宝刀、"背負い投げ投法"を使わなかった

「クリーンハイスクールの影丸」に、

不動の腕組み、怪力「フォアマン」。

さらには「右か、左か、どっちだ・・・

 そうだ、足を見ていればわかる!」

それでも山田を三振に仕留めた「赤城山の〝両手投げ″木下」と

2塁ベース上の岩鬼の視線を遮った「国定」。

そして「土佐丸の犬飼小次郎に武蔵、犬神」、

「いわき東の緒方」、「通天閣の坂田」、

とどめは「弁慶の義経と武蔵坊」・・・

ああ、輝いていた「甲子園」よ!

*****************************

実は水島新司さんには、幸せなことに

2度お目にかかる機会を授かりました。

1度目は、1999年夏の甲子園大会。

密着取材していた「宇和島東」の初戦の相手は

なんと、あの「新潟明訓」! そして試合当日!

ああ、なんということよ!

甲子園球場の正面入り口付近で偶然、水島さんを発見!

アポなしどころか急遽お願いして

インタビューを取らせていただきました!

甲子園大会の取材規制が非常に厳しくなった今では、

とても考えられない話ですよね。

*****************************

そして2度目が、2004年です。

そう、「四国にプロ野球球団」ができた時です!

     *     *     *

その名も「四国アイアンドッグス」!

     *     *     *

もちろん雑誌「少年チャンピオン」の中のお話で、

「ドカベン スーパースターズ編」

としての連載ではありましたが、

それでも私は本当に球団が出来たかのように

心の底から嬉しくて嬉しくて・・・

結局、こうなったわけです(^^)/

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(2004年 坊っちゃんスタジアムにて)

そして!

この対談収録のあと、こうなりまして・・・

20201230_233056.jpg

あの日から16年―

山田、里中、岩鬼、殿馬という天才たちに

真っ向勝負を挑み続けた 「闘将!不知火守」の執念は、

私を幾度も勇気づけてくれました。

     *     *     *

そしてこの翌年、日本初の独立リーグ

「四国アイランドリーグ」が誕生したことも

偶然ではありませんよね。

     *     *     *

水島さん、本当に有難うございました。

そして、本当にお疲れさまでした。

     *     *     *

2020年、全てが当たり前でなくなった年の暮れに

心からの感謝の思いをこめて―

*************************************

最後に当時テレビ番組のオープニングを飾っていた

「がんばれドカベン」の歌詞をご紹介させてください。

作詞:水島新司 保富康午

とれないボールが あるものか

かまえたミットが うけとめる

ああ 青春のストライク

ズバーンといかした あいつだぜ

気はやさしくて 力もち

明るい笑顔が きょうもゆく

がんばれ がんばれ!ドカベン

山田太郎

うてないボールが あるものか

うなったバットが たたきだす

ああ 青春のホームラン

カキーンとしびれる あいつだぜ

友のためなら いのちがけ

誰にもいわずに 体あたり

がんばれ がんばれ!ドカベン

山田太郎

勝てない勝負が あるものか

だまってきたえた 手がにぎる

ああ 青春の優勝旗

スカーンとほれこむ あいつだぜ

人生いつも フェアプレイ

スポーツ精神 花と咲け

がんばれ がんばれ!ドカベン

山田太郎

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2021年4月27日(火)

「有言実行」 日本人初のマスターズ制覇 松山英樹選手

「有言実行やな・・・」

ポツリと漏らしたその一言に込められた思い、

そして積み重ねられてきた時間の重み・・・

日曜午後、西日に浮かび上がる18番グリーンで

拍手喝采を全身に浴びる息子・英樹さんの姿を

テレビの画面越しに見つめる 父・幹男さん。

「今まで 小さい時から 思い出したら

        やはり涙がこみあげてくる・・・」

97年タイガーウッズがマスターズで初優勝したその瞬間、

栄光の「グリーンジャケット」は

親子の約束であり、目標となった。

「おなじことを やろう」

あれからおよそ四半世紀の時が過ぎ、

同じオーガスタの18番グリーンで西日に顔を赤らめる松山英樹選手。

日本人初のメジャー制覇、マスターズ優勝という偉業。

その壮大な物語を、少しだけ近く感じることができたこと

感謝してもしきれない。

そんな歴史的偉業のはじまりとなった

あの日の「1枚のクリーム色の紙」。

私のつたない言葉で恐縮すぎるが、

当時の様子をもう一度だけここに紹介する。

********************

2011年1 6日(木)

「紙の重み」

その手は全く震えていなかった。

重さ、わずか数グラム。

その1枚の紙を過去どれだけ多くのゴルファーが

待ち焦がれてきたことか。

『マスターズの招待状』

その上品なクリーム色の厚紙と初対面を果たしたのは

松山市出身、松山英樹選手。

写真①.jpg

あと7時間後には年も改まろうかという大晦日の午後5時、

愛媛、松山市内のゴルフ練習場のロビーは

家族やゴルフ仲間で祝福ムードに包まれた。

しかし歴史的な出来事にも、

18歳らしからぬ落ち着きの中・・・

「この紙切れで、すごい所に行けるんだなという感じですね」

写真②.jpg

両手の指先で招待状をつまむようにして

顔のそばに近づける。

その紙の重みは―

「紙自体は軽いんですけど・・・」

「書いてある内容はちょっと読めないんですけど・・・」

「すごく重いものだと思っています」

ゆっくりだが、自分の言葉で語る松山選手。

実感はこれから徐々に体の隅々にまで広がっていくのだろうが

興奮気味の周囲の笑顔には思わず表情も緩んだ。

「小さい頃からお世話になっている方々がいる場所で

封を開けることができてよかったです。

夢の舞台なので楽しく頑張って来たいと思います」

写真③.jpg

そして年が明けてきょう―

仙台市の東北福祉大学で記者会見に姿を見せた松山選手。

招待状と共に過ごした1週間、相性も良さそうな印象だ。

―マスターズに出る他の日本人選手については?

「特に気にしていません」

記者からの質問にも表情は変わらない。

―同い年の石川遼選手や先輩の池田勇太選手も出ますが?

「・・・はい(笑)」

そう・・・それでいいと思う。

マスターズでプレーするのは自分であり、

世界標準を初めて計るのに「既存の物差し」は何の役にも立たない。

把握すべきは自分自身そのもので、

爪の先まで神経を尖らせて臨むのみだ。

16番ホールに代表される「ガラスのグリーン」、

11番から13番ホールの「アーメンコーナー」

立ちはだかる難コースに「技」と「心」を丸裸にされてなお、

世界中から集結したパトロンたちの前で

次ぎの1打に集中できるかどうか―。

「夢の舞台なので、楽しく頑張っていきたいと思います」

2011年4月7日。

アメリカジョージア州のオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ。

開幕日の1番ティグラウンドに、

どんな表情の松山英樹が立っているのか。

待ち遠しい限りである。

******************

(11年1月6日 ブログより)

そんな松山英樹選手のマスターズ制覇を記念して

5月1日(土)16時54分~

番組を放送いたします。どうぞご覧ください。

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2021年2月 5日(金)

夢に集い、あすへ踏み出す ~川之石野球部 甲子園に最も近づいたあの夏~

「ああ、残念・・・」

そう言ったきり、男性教諭はスチール製の椅子の背にもたれながら

パソコン画面を見つめ続けていました。

               *

「21世紀枠四国地区候補校」に選ばれていた「川之石野球部」。

先月29日、川之石高校の体育教員室では

2人の教諭が自席のパソコンに映し出される

「選抜高校野球大会」出場校発表のLIVE配信を

固唾をのんで見つめていました。

ひとりは野球部の松本富繁監督。

そしてもうひとりが「梅本定男」さんです。

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(左:松本富繁監督  右:梅本定男元監督)

            *

今から38年前の1983年、夏の高校野球愛媛大会で

「川之石」は初の決勝進出を果たしました。

当時、決勝の相手は

若き宇佐美秀文監督率いる「川之江」。

「川川対決」となった決勝は大いに注目を集めました。

            *

しかし川之石は7対4で敗れ、甲子園初出場はならず。

結局これが「チーム史上最も甲子園に近づいた瞬間」となりましたが

この時の監督が梅本さんでした。

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(1月29日 NスタえひめOA)

           *

当時梅本さんは26歳の青年監督。

川之石が勝ち進むごとに、報道陣からは

その采配や指導方法などについて様々な質問を受けたそうです。

           *

そして決勝戦の舞台にチームを導いた梅本さん。

ところが・・・

           *

「怖くなりましてね・・・」 

(高橋:怖い?)

「実は私の専門は『剣道』なんですよ」

(高橋:へっ?)

「当時、川之石に来たら

『野球部の監督をやってくれ』と言われたんですよ」

(高橋:野球経験は?)

「ありませんよ(笑)。

 実はあの夏で監督を辞めるつもりだったんですよ。

 でもせめて最後ぐらい1回は勝ちたいなと思っていて...」

           *

実は川之石はその前年の夏まで「7年連続初戦敗退」。

           *

「ですから1回戦で勝利した時点で、もう私は満足して、

 2回戦からは『負けてもいいから思いっきりやってこい』と」

(高橋:ベンチのムードは?)

「それはもう選手達は楽しそうにやってましたよ。

 負けていいって監督が言ってるんですから(笑)」

           *

プレッシャー「ゼロ」。

そんなリラックスムードの中、川之石ナインは伸び伸びプレーすると

5試合で33得点と打線が爆発。

あれよあれよという間に決勝戦に駒を進めました。

           *

ところがここで突如、我に返った梅本さん。

「怖くなりましてね・・・次勝ったら「甲子園」と考えたら。

 そんなこと全く考えてませんでしたから」

           *

ただ、そこで欲が出ないところが梅本さんなのでしょう。

           *

「本当に変な話なんですけれども、川之江さんに逆転された時に

 心の中で「ホッ」としている自分がいたんですよね。

 あの時、私がもっと欲を出していたら・・・」

           *

でもきっと、梅本さんのそんな自然体の雰囲気こそが

かえって川之石ナインの自主性を引き出し、

この夏の快進撃に繋がったことは想像に難くありません。

           *

実際この決勝でも、2回表に3長短打で2点を先制したのは川之石。

なんとたくましい選手達ではないですか。

           *

直後の2回ウラには川之江打線に一挙6点を奪われ逆転されますが、

川之石ナインは6回に2点を返し2点差に詰め寄るなど

〝監督の想像を超える″粘りを見せ、最後まで戦い抜きました。

           *

結局7対4で川之石は敗れましたが、

この夏、夢のような5試合を戦い抜いた川之石ナインの勇姿は

ミカン山と宇和海に囲まれた八幡浜市保内町民の心を1つに繋ぎ、

大いに勇気づけたことでしょう。

      *    *    *

あれから38年。

2021年1月29日の午後3時すぎ。センバツ21世紀枠の発表―

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しかし吉報は届かず。

またも甲子園は「梅本さん」の前を通り過ぎていきました。

            *

「残念ですけれども、ぜひ夏に向かって頑張ってほしいです」

梅本さんは笑顔で、そう一言。

            *

1時間後、西日の差すグラウンドでは

もう、野球部員達の元気な声が響いていました。

            *

そして梅本さんは64歳のきょうも

「竹刀」を手に部員たちの待つ剣道場へ向かいます。

********************

1983年 夏の高校野球愛媛大会

川之石の戦績

1回戦 〇8-3松山南

2回戦 〇9-0土居

3回戦 〇3-1新居浜商

準々決 〇9-6北宇和

準決勝 〇4-2宇和

決 勝 ●4-7川之江

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(写真:川之石高校野球部 監督室より)

2021年1月13日(水)

ドジャーファミリーの絆 ラソーダ監督を偲び

ノモは「家族」になったんだな~。

あの日、西海岸の陽気な人たちとポップコーンを頬張りながら

そう感じていました。

          ★

95年、海を渡った野茂英雄投手が

カリフォルニアの海のようなブルーを身にまとい

バッタバッタと奪三振ショーを繰り広げる様を

きのうのように覚えている野球ファンは少なくないでしょう。

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          ★

実はメジャーリーグは、この前の年、

「サラリーキャップ制度導入」を提案する経営者側と

受け入れたくない選手会側との対立が激化し、

94年夏から「ストライキ」に入っていました。

結局ストライキは、プロスポーツ史上最長となる「232日間」に達し

深刻なファン離れを招きました。

          ★

結局、95年シーズンも、予定より1か月遅い4月25日に開幕しましたが

各地のスタジアムでは、94年シーズンの打ち切りと

ワールドシリーズ中止に対するファンのブーイングは続き、

殺伐とした空気に包まれていました。

          ★

そんなタイミングだったんですよね。

海の向こうからやってきた「とても無口な」ひとりの日本人が

「トルネード旋風」を巻き起こすのは!

          ★

ボールパークの小高い丘の上で、

まるで眠りからさめたように、男は大きく伸びをすると、

今度は上体をひょいっと必要以上にひねり背中の「16番」をアピール。

すると今度は巻きあげたネジを一気に解放しながら、

腕をまっすぐ振り下ろす!

そして問題はここからで、並み居るメジャーの強打者たちは

この後、1秒にも満たない回答時間で、究極の「2択」を迫られたのです。

          ★

「ストレート」か「フォーク」か―

          ★

メジャー1年目、野茂投手は「最多奪三振」をもぎとり、

アジア人初の「新人王」に輝きました。

13勝6敗 奪三振は実に「236個」!圧巻であり、痛快でした。

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          ★

その後12シーズンに渡り、7球団で投げ続け、

通算123勝、奪三振数1918個。

「最多奪三振」を2回獲得し、ノーヒットノーランも2回達成しました。

ただその数々の偉業も、きっと「この人」がいたから。

          ★

     「トミー・ラソーダ監督」

          ★

成功など全く約束されていない異国の地に1人乗りこみ、

「たった2つ」の球種だけで並み居るメジャーの強打者たちに

真っ向勝負を挑む野茂投手を「我が子」のように愛し

全身で受け止めているようでしたね。

          ★

「野球をしにきているのであって、英語を話しに来ているのではない」と

頑なに日本語愛を貫く野茂投手が、記者会見で困っている時も

ラソーダ監督はいつも笑顔で会見場を和ませるなど、

「息子」がベースボールに集中し堪能する環境作りに

いつも気を配っているようで、

それは本当に「家族」のようでした。

          ★

そんな「ドジャーブルーの血が流れている」という

ラソーダ監督率いるドジャース戦を見に行ったのは95年9月。

野茂投手の1年目で、私は3日間連続で「ドジャースタジアム」に通いました。

もちろん野茂投手の登板を目に焼き付けました!

実は私が転職するタイミングと重なっていたこともあり、

それはそれは勇気をもらいました。

          ★

そしてボールパークの雰囲気の素晴らしさや、ベースボールを、

そしてドジャースをこよなく愛するファンのムードに「やられた」私は、

ロスの観光などしている場合ではなくスタジアムを心から堪能しました。

まるで昨日のことのようです!

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(95年9月 ドジャースタジアム)

          ★

今月7日、ラソーダ監督が亡くなりました。

          ★

野茂英雄投手の挑戦を愛し、

「日本人の文化」に心を開き受け止めてくれた、

私たち「野球ファン」にとっても素敵な「父」でしたね。

2020年12月30日(水)

「さとるボールをもう1球」 水島新司さん引退に寄せて

2020年、全てが当たり前でなくなった年の暮れに

心からの感謝の思いをこめて―

       *   *   *

「深紅の大優勝旗は、はりまや橋を渡るんだ」

「犬飼小次郎」が投じた渾身の一球を、

ついに捉えた「山田太郎」のフルスイング。

そして打球はピンポン玉のようにスタンドに運ばれると、

「岩鬼」が吠え、「里中」が涙し、「サチ子」が跳ね、

「じっちゃん」の背中が震えて...

ああ、野球という競技のなんとドラマチックなことよ。

仲間たちと、ライバルと、そして家族の絆。

そんな記憶を忘れずにいてくれた自分の脳にも感謝(^^)/

     *       *      *

           『ドカベン』

     *       *      *

本当にありがとうございました。

幼い私に「野球」の素晴らしさを教えてくださって!

             *

今月1日、野球漫画家の「水島新司さん」が

引退を発表されました。新潟市出身、81歳。

現役63年の鉄人が、ついにペンを置かれました。

本当にありがとうございました。

幼い私に「野球」の厳しさを教えてくださって!

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「白新の不知火」...

義眼を見抜いて里中にカーブを要求した山田の観察力と、

後に同じボールをスタンドインさせた不知火の執念。

3塁側スタンドから 「父さん」が

フェンスを飛び越え「でかしたぞ守!」のシーンは

今思い出しても震えますよね。

***************************

「東海の雲竜」...

"豪打・真空切り"には度肝を抜かれましたが、

巨体に似合わずライトの守備も一流で

秘密兵器として自らマウンドに上がれば剛速球。

そんな豪快キャラも後に「サチ子」の前では

いじられキャラで好きだったな~。

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「横浜学院の土門」...

自分の球が凄すぎて受けられるキャッチャーがおらず、

全力を出せないという設定にまいりました。

そんな不遇にも愚痴をこぼすことなく、

歩いて歩いて、探して探して...そう、キャッチャーを。

そして「谷津吾郎」と出会い、「前略、土門さん」と

バッテリーを組むまでのくだりは心を鷲掴みにされました。

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他にも、ガウンの下でダンベルを握り続けていた

「甲府学院の賀間」や、記憶喪失の「代打山田」に対し

伝家の宝刀、"背負い投げ投法"を使わなかった

「クリーンハイスクールの影丸」に、

不動の腕組み、怪力「フォアマン」。

さらには「右か、左か、どっちだ・・・

 そうだ、足を見ていればわかる!」

それでも山田を三振に仕留めた「赤城山の〝両手投げ″木下」と

2塁ベース上の岩鬼の視線を遮った「国定」。

そして「土佐丸の犬飼小次郎に武蔵、犬神」、

「いわき東の緒方」、「通天閣の坂田」、

とどめは「弁慶の義経と武蔵坊」・・・

ああ、輝いていた「甲子園」よ!

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実は水島新司さんには、幸せなことに

2度お目にかかる機会を授かりました。

1度目は、1999年夏の甲子園大会。

密着取材していた「宇和島東」の初戦の相手は

なんと、あの「新潟明訓」! そして試合当日!

ああ、なんということよ!

甲子園球場の正面入り口付近で偶然、水島さんを発見!

アポなしどころか急遽お願いして

インタビューを取らせていただきました!

甲子園大会の取材規制が非常に厳しくなった今では、

とても考えられない話ですよね。

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そして2度目が、2004年です。

そう、「四国にプロ野球球団」ができた時です!

     *     *     *

その名も「四国アイアンドッグス」!

     *     *     *

もちろん雑誌「少年チャンピオン」の中のお話で、

「ドカベン スーパースターズ編」

としての連載ではありましたが、

それでも私は本当に球団が出来たかのように

心の底から嬉しくて嬉しくて・・・

結局、こうなったわけです(^^)/

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(2004年 坊っちゃんスタジアムにて)

そして!

この対談収録のあと、こうなりまして・・・

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あの日から16年―

山田、里中、岩鬼、殿馬という天才たちに

真っ向勝負を挑み続けた 「闘将!不知火守」の執念は、

私を幾度も勇気づけてくれました。

     *     *     *

そしてこの翌年、日本初の独立リーグ

「四国アイランドリーグ」が誕生したことも

偶然ではありませんよね。

     *     *     *

水島さん、本当に有難うございました。

そして、本当にお疲れさまでした。

     *     *     *

2020年、全てが当たり前でなくなった年の暮れに

心からの感謝の思いをこめて―

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2020年9月28日(月)

午後9時の芝生広場

この芝生広場は、午後9時ごろから子供たちで賑わい始める。

サッカーだ。

男子も女子も嬉々としてボールを追いかけ、パスをかわす。

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ここはニンジニアスタジアムの目の前。

愛媛FCの試合が終われば、今度は彼らの出番だ。

気分はすっかりプロ選手。

夜空の元、スタジアムの照明に浮かび上がる鮮やかな芝生広場は

家路につく前、ささやかな夢を膨らませるにはこれ以上ない空間となる。

この日、愛媛FCは引き分けに持ち込み、勝ち点1を獲得。

しかし5試合連続無得点で「最下位」と悩みは深い。

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それでも愛媛FCは、次も懸命に戦う姿を見せてくれるだろう。

それは、スタジアム前の広場にいる彼らの誇りでもある。

勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。

それでもチームはいつも全力で戦ってくれる。

彼らはそれを知っているから、夢を見続けることができる。

「22チーム中、22番目 J2の最下位チーム」

ただそれは1つの側面に過ぎない。

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15年前の2005年12月、

松山市内のクラブ事務所にかかってきた「1本の電話」から

「Jのある生活」が始まった愛媛。

今も夢があり、サッカーがあり、クラブが地元にある。

そしてこのコロナ禍でも、子供たちはボールを追い続けている。

願わくば、次は彼らに"ゴールのイメージ"も与えてほしい。

2020年9月24日(木)

理想を追って「最下位」

たしかに「最下位」だが「転落」ではない。

転落には「意外にも」という意が少し含まれている。

しかし今季「愛媛FC」の順位は着実に後退していき、

きのう「底」に着いた。それだけのことだ。

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全42試合の半分、前半21試合を終えた時点で

「最下位」。とてもわかりやすい。

つまり現在、J2の22チーム中、

最も「勝ち点が少ない」チームである。

しかし愛媛FCは、最も弱いチームではない。

最も勝ちが少ないチームではない。

最も負けが多いチームでもない。

それでも「最下位」だ。

とても難しい。

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でも1つ理由をあげるならば、

愛媛FCは「最もチャレンジしている」チームだ。

「最下位」はその証であり、勲章だろう。

「15年」もJ2を見ていればみんな気がついている。

勝ち点をぬかりなく積み上げ順位を上げていく方法ぐらい・・・

中盤を省略し、背の高い前線の選手にボールをあずけ

2列目が飛び出して最短コースでシュートを叩き込む。

あるいはセットプレーの名手が

ピンポイントで長身選手に合わせてゴールをもぎとる。

点を取ったら、あとは引いてガチガチに守って、無失点で逃げ切る。

それを1シーズン、ひたすら繰り返していく・・・。

ただ、そこに未来はあるか―

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たしかに負けは引き分けに、引き分けは勝ちに変わり、

勝ち点が増え、順位も上がる。

観客は増え、クラブにゆとりが生まれ、笑顔が増える―

しかし愛媛FCは、「安易に」それを手に入れることを良しとしていない。

頑として、「理想」のポゼッションサッカーを追い求めている。

ゴールキーパーの足元から、いや、時には手から転がされたボールは

最も近い位置にいるディフェンダーへ。

そこからボランチを交えて地道にパスを繋ぎ、簡単には強行突破しない。

そして縦横のショートパスで地道に相手の食いつきを誘引し

十分に手数をかけて相手選手の間隔を広げていく。

そしてここぞの瞬間、DFのウラへ飛び出したフォワードに

一撃必殺のスルーパスを送りこみ、ゴールマウスに流し込む・・・。

ボールを徹底的にキープし、主導権を渡さない。

「回させられている」と言われようが、

ペナルティエリアの外から、自分たちの仕掛けでスペースを作り、そこを突く。

前半21試合で、愛媛FCの得点は「21」。

わかりやすい。1試合で1点の割合だ。

その1点で勝つ場合もあり、負ける場合もある。

ただ、愛媛FCがあげた「1点」の重みや意味が、

最下位なのだろうかー

新型コロナの影響で、先の見えない準備期間を含め、

前例が一切通用しない「史上初だらけ」だった前半戦。

"理想を追って最下位"

結構かっこよかったりするかも。

後半戦はあさってから始まる。

全てのチームを追う立場。とても分かりやすい。

ただ「最下位」を楽しめるのはこの2日だけかもしれない。

川井監督は言う。

「最終戦が終わったわけではない。手応えは感じている」

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2020年7月31日(金)

「ペスト」手に「激坂」思うコロナ禍で

今年4月から「ペスト」を読み始めました。

フランスのノーベル賞作家、「アルベール・カミュ」の代表作です。

世界的な大流行=パンデミックを何度も起こしている、致死率の高い「ペスト」の猛威に

さらされたアルジェリアの港町の人々の様子を詳細に描いた1947年発表の作品です。

70年以上前に書かれた作品とは思えません。「新型コロナ」と向き合う今の私たちを、

今、目の当たりにしているかのような、「不条理」にされされた人間の行動や心理の描写には

本当に驚かされます。

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ただ・・・・・・長い!さらに文章が難解!翻訳された文のリズムになれるまで

時間がかかります。そのため「5月25日」に緊急事態宣言が解除された時点で、

まだ栞のひもは本の3分の1あたりにぶら下がっていて、

その後の新型コロナに対する「緩み」で読書ペースも「緩み」、興味もやや薄れて、

ついには「ホークス3軍はなぜ成功したのか?」という別の本を読み始めてしまう始末...。

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しかし、今再び「ペスト」に復帰しました!もちろん「第2波」の予感からです。

作中、カミュは、ペストの猛威にさらされた人々が極限状態の中で、恐怖やパニックの先に

、放火や略奪を起こす様子を淡々と描写。その上で、感情の回路を切断することで

心の平穏を維持しようとする人間の心理に迫り、「死への慣れ」へと続きます。

家族や親しい人との悲しい別れも、それが続けば次第に感情が追いつかなくなり、

さらに連日街に流れるおびただしい数の死者を前に、いつしか記憶も想像力も失っていく。

そんな恐ろしい光景が時々刻々と描写されています。 ふぅ・・・

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さて2020年。連日、着実に伸びていく感染者数の棒グラフ。

一度下がって、また上り始めて・・・。

私にはまるで、自転車の「ヒルクライムレース」の勾配断面図のように見え、

最近の画面右端のグラフの伸びは、まさに「ツール・ド・フランス」や

「ブエルタ・デ・エスパーニャ」の山岳ステージに出てくる勾配20パーセント越えの

❝激坂❞のようです。コロナによる社会の疲弊具合は、選手が必死にもがく姿と

オーバーラップして見えるのです。

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そうは言っても、人類の歴史は未知のウイルスとの闘いの歴史。乗り越えてきた歴史に学び、

たくましく❝withコロナ時代❞の生き方を探っていきたいものです。

そこで次回は、コロナ禍での「サイクリング」を考えます。

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(しまなみ海道 サンライズ糸山サイクリングターミナル)

2020年6月29日(月)

❝withコロナ❞の時代へこぎだして・・・

みなさんこんにちは。

毎日新聞様の「アナ番」(6月14日掲載)です。

カラー写真に感激しております。(^^)/

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「春の海マスクずらして深呼吸」・・・みなさんこんにちは。

新型コロナの影響で次々に現れる「史上初」の出来事に

戸惑う毎日が続いていますが、いかがお過ごしですか。


スポーツ界でもインターハイや夏の甲子園、それに繋がる県大会など

多くの高校生達が、目標だった集大成発表の場を奪われ、

特に"来年がない"3年生達はショックと無念さに言葉を失ったと思います。

それでも多くの現場の指導者たちが絞り出した言葉の通り、

「頑張ってきた3年間は、決して輝きを失うことはない」と

私も長年スポーツ現場で取材してきた1人として確信しています。

そして今や"withコロナ"(コロナとともに)という新局面を迎えています。

感染対策と経済活動の「両輪」で進むという難しいミッションが

人類には課せられていますが、

「両輪」と言えば、私は今「自転車通勤」で感染対策を図っています!

ロードバイクで毎日往復20キロ...でも、少し早めに家を出て

ゆっくり走れば風薫る季節、マスク越しでも朝の空気は格別です。

もちろんオフの日には"おひとり様"で新緑まぶしい松山市の郊外へ。

"三密"どころか、すれ違う人もまばらなアップダウンの山道では

季節の移り変わりを全身で感じることができて最高ですよ。

さて長い延期・中断期間を経て、まもなくプロ野球や独立リーグ、Jリーグが

開幕、再開します。楽しみですね。

ただ当面は無観客試合で実施するなどスポーツ界は

慎重に一歩を踏み出そうとしています。

それもそのはず、加速していく助走路から見えてくるのは

もう従来の価値観とは異なる世界であり、

求められるのは「新生活様式」を含めた新しい未来への挑戦です。

それでも1年間の助走の先で強く踏み切ることができれば

来年の「東京オリンピック」という着地点は、

人類が未知のウイルスを制御した証として

歴史に深く刻まれることでしょう。

(6月14日掲載)

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