高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2013年10月25日(金)

しまなみサイクリング2013

2013年10月20日。

 

よりによっての大雨に、今治メイン会場への車中では

思わず無口になった午前5時。

佐野元春!を聞きながら、

きょうは全てを受け入れようと覚悟を決めました。

 

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(受付でもらったゼッケンとタオル)

 

すると今治新都市のスタート会場には、すでに大勢のサイクリストが

色とりどりのウエアに身を包み、

笑顔をたたえながら雨を楽しんでいました。

 

110キロの大三島コース。

しかも!「高速道路本線」を走れる奇跡。

 

愛知からきた男性は

「雨が降ろうが、槍が降ろうが、走ります!」

 

雨に煙るしまなみ海道 

私の心も決まります。

 

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(午前8時のスタート直前 3000人がズラーッと向こうまで)

 

 

颯爽と・・・  実は、雨を飲みながらの激走~

 

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それでも走り出せば、やっぱりそこは「聖地」しまなみ。

多島美に癒されながら

沿道の声援にエネルギーをいただきながら

みんな「風」になっていきます。

 

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でも、上り坂に差し掛かると・・・

 

 

 

 

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息も絶え絶え・・・ 

ももはプルプル・・・

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(大三島 WEST SEASIDE コース)

 

雨もあがりました。

ブルーラインがシーサイドコースを引き立てています。

 

 

 

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(ゴールの今治新都市にて)

 

8時間の制限時間をめいっぱい有効活用して!?

M記者、S記者とともに、110キロを完走しました。

本当に島の地元の方々の沿道での声援が心に残った一日でした。

来年10月26日の世界大会が、今からホントに楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

2013年9月25日(水)

「ため息」の重さは

クルム伊達公子が東レパンパシフィックで激高した

観客の「ため息」問題。

 

クルム伊達が第2セットのタイブレークで、

最初のポイントをダブルフォルトで失い

「あ~」の声が漏れ響くと

クルム伊達は「ため息ばっかりっ」と

怒りの交った大声をコートに響かせた。

 

日本のテニス会場に行くとわかるが

レベルが上がれば上がるほど

静寂のあとの拍手またはため息が、

同じような強さで響いているように感じる。

 

 

かつてメルボルンで全豪オープンテニスを観戦したことがある。

そこで驚いたのは、その賑やかさだ。

まるでビーチバレーかフットサルの会場にいるかのような

「スタンドの盛り上がり」を目の当たりにした。

 

国旗を顔にペイントし、立ち上がって旗を振り、

ポイントをあげればもちろんのこと、

ダブルフォルトをしようがしまいが、

声援がなかなか収まらない。

 

とにかく贔屓の選手を応援しまくる。

そしてレフリーから

何度も静寂を求める「サンキュー」の声が響き

ようやく次のサーブ。

 

ちなみに私が観戦したのは1、2回戦のコートで

センターコートではないが、

トーナメントの終盤でもその雰囲気は続いていた。

 

 

個人的な感想だが、日本のファンは

良くも悪くも「勝敗」を意識しすぎるのかもしれない。

「一発勝負のトーナメント文化」が浸透しているからだ。

次がない、後がない状況に追い込まれた中での勝負が好きだ。

 

 

幼い頃から「リーグ戦文化」で育っていればこうはならない。

その一戦に敗れても「次」がある。

次に挽回できるチャンスがある。

 

選手も観客もそう思っているから

大勝負にも出れるし、伸び伸びプレーできるし、

少々のミスにも大きな心で対応できるのかもしれない。

 

「クルム」と「伊達」 

 

2つの文化を知る彼女らしいと思った。

 

 

 

2013年9月24日(火)

安楽投手 伝説の末に訪れた痛み...  

安楽が肘を痛めた。

 

2013年9月22日(日)

四国高校野球県大会1回戦。

坊っちゃんスタジアムの第2試合。

 

「異変」はすでに1回表から明らかだった。

 

「投球練習の7球目」

この時点で肘に違和感を感じたという安楽は

先頭打者をレフトフライに打ち取ったが

2番打者の途中から投球間に肘をブルッブルッと振り始める。

 

その後、ランナー2塁3塁から

続く左打者に球威のないインハイをライト線へ運ばれ

2点を先制された。

 

そして迎えた「3回」。

実は安楽の降板を加速させた出来事があった。

 

ノーアウト1塁3塁で、西条は2盗を仕掛ける。

キャッチャーはすかさず送球・・・

 

しかしこれを長身安楽は

グラブを差出しカットするや否やバックホーム...

3塁ランナーの本盗を見事に阻止した。

 

しかし、「不意の送球」に

意識的にかばっていたはずの肘周りの筋肉は

体に染みついている「本能的な」動きに支配され

無防備のまま「1球」を投じてしまった。

 

そして次のバッターへの初球、

ボールは想定した軌道を大きく外れ、

右打者の胸元をかすめた。

 

安楽はここで自ら降板を訴え、

ついにマウンドを明け渡した。

 

しかし・・・この直後さらに安楽を不運が襲った。

 

ランナーは満塁。

2番手投手はサウスポー。

続く西条は左バッター。

 

外のボールで勝負に行くと

ひっかけた打球は1、2塁間を破った・・・

 

ライトは「安楽」。

 

前進してきた安楽はぎこちなくグラブにあててボールを掴むと

すかさず、素早いモーションでホームを狙い

右腕を振り切った・・・

 

ホームは間に合わなかった。

しかしそれ以上のことがすでに外野の芝の上では起きていた。

 

 

この回2度目の「不意の送球」に

安楽は体を折り曲げ、

右ひじの内側を左の親指で圧迫させながら

激痛に顔を歪めた。

 

 

 

 

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**************************

 

 

春のセンバツ準優勝、

夏の愛媛大会157キロ、

甲子園最速155キロ、

台湾での18U野球ワールドカップ準優勝とベストナイン。

 

有り余る才能と規格外の球威、

そして躍動感あふれるピッチングフォーム...

「一高校生の部活動」と理解しながらも

多くの高校野球ファンがその限界値を知りたがり

彼の一挙手一投足に注目した。

 

しかしその一方で「投球過多」による不安は常につきまとい

その表裏一体のギリギリの攻防が

またさらに「16歳」の少年を輝かせたのも事実で、

無限の可能性という幻想に酔ってしまったファンも

少なくないだろう。

 

しかし、安楽は肘を痛めた。

 

 

*******************

 

春のセンバツ以降、私は2人の投手を取材し、

その肉声を放送した。

 

1人は、元北海道日本ハムで

愛媛マンダリンパイレーツの投手「金森敬之」。

 

「あれだけ投げられて、正直羨ましいなと思いますよ」

安楽のピッチングへの感想だ。

 

金森は東海大菅生高校から2004年、日本ハムに入団すると

07年に4勝、その後も先発、中継ぎと毎年10試合以上

1軍のマウンドで活躍してきた。

 

ところがおととし春、右ひじの靭帯を損傷。

去年3月には右ひじ側副靭帯の再建手術を受けたが、

オフには「戦力外通告」を受けていた。

 

 

「僕はどちらかというと、投げて投げて、打たれてまた投げて

みたいな感じでやってましたが、その反動が来たと思うんです。

でも投げないとつかない体力もあるし

投げないとつかない筋力もあるので、

そこは難しいところなんですよね。

でも、ケガをしたら負けですよ」

 

 

華やかなNPBの世界を後にした金森は

今シーズン、独立リーグから復活を期し、

慎重にリハビリとトレーニングを重ね、

後期リーグには中継ぎ投手の切り札として

活躍するまでになった。

 

「シーズン初めが、今の状態だったらね」

言葉に悔しさはにじむも、その表情は晴れやかだった。

 

「投げられる」ということが

 野球人にとって、投手にとってどれだけ意味深いことか。

 

***************************

 

そして、夏の甲子園後に取材したのが

ジャイアンツや近鉄で活躍した「打者」吉岡雄二。

 

しかしかつては、

東京の帝京高校を夏の甲子園初優勝に導いた

「背番号1」だ。

 

1989年夏の甲子園で

吉岡は全5試合に登板し、3試合を完封、わずか1失点。

圧巻の内容で全国制覇を達成した。ところが・・・

 

大会終了後に行われた国際試合、「日韓米高校親善野球」。

ここで吉岡の肩は悲鳴を上げたのだった。

 

「振り返れば、やっぱりすごく疲労がたまっていて、

 甲子園で緊張している中で何試合も投げて、

 その後に1回気持ちが楽になった状態でまた投げた時に、

 気持ち的には大丈夫だったが、

 やはり...  そこで肩を痛めたんです」

 

結局、吉岡は

この年のドラフトでジャイアンツに入団するが、

すぐに右肩を手術。「打者転向」を余儀なくされた。

 

ただ、この時吉岡はこうも付け加えている。

 

「僕も高校の時、本当に3連投、4連投を経験しているんですが

 (プロ入り後は)高校生の時の、精神的な強さだったり、

 その時に培ったものもすごく大きかったので」

 

そして最後にこう語った。

 

「高校生は投げませんとは言いませんからね。

 高校生を止めるのは大変なことです。

 だからこそ指導者には

 冷静な判断をしてもらいたいなと思いますね」

 

**************************

 

実は高校時代、キャッチャーだった私も

肘を故障した経験がある。

 

最もひどい時にはピッチャーまでボールが届かなかった。

鍼を打ち、灸を据え、テーピングをし、握力を鍛え、

そして軟膏のモビラートを擦り込み、

夏でも冷やすまいとサポーターを巻きつづけた。

学校、グラウンド、治療院、学校、グラウンド、治療院・・・

 

朝起きて、ボールを握って

もしかしたら、きょうは痛くないんじゃないか・・・

 

希望と落胆の繰り返し。

 

最後の夏が近づく中、まともに練習できず、

試合でも本来の力を出し切れない。

 

それでも本番になったら「腕が折れても...」

という覚悟は出来上がっていたように記憶している。

 

 

将来?何を言ってるんですか。

何のためにここまでやってきたんですか―

 

 

**************************

 

日々、前のめりになって野球をしている球児たちに

冷静な判断を求めるのは難しい。

 

でも、最後は本人が決める。

 

それもそうだ。

 

 

ただ、あんなに面白い「野球」という競技を

将来に渡って「見るだけ」にしてしまうのは、

あまりにももったいないと思う。

 

 

 

 

2013年9月12日(木)

「世界のヤマシタ」から49年、再び・・・

2020年東京オリンピック開催が決まりました。

受け止め方はもちろん人それぞれですが

素晴らしき世界史の1ページが目の前で繰り広げられると思うと

今から、湧き立つ興奮を抑えきれませんね。

 

そして今回の開催に深みと興味を与えているのは

なんといっても、「東京」は2度目ということです。

 

49年前の1964年、昭和39年、

日本国民にとって、まさに未知との遭遇であった

世紀のスポーツ祭典「東京オリンピック」。

 

そこで見事、金メダルに輝いたのが

宇和島市出身の山下治広選手。(現姓:松田)

体操ニッポン、あの「ヤマシタ跳び」の山下選手です。

 

「今も忘れない...往年のメダリスト」

 今回は「山下治広選手」。

 96年7月2日の放送分からです。

 

***************************

 

東京、千駄ヶ谷の国立競技場から

西に5分ほど歩いたところにある

東京体育館。

 

今から49年前の10月23日。

ここで一人の愛媛県人が、

我が国の体操界に新たな歴史を刻みました。

 

1964年、第18回東京オリンピック。

連日繰り広げられる世界トップクラスの技に

日本中が湧く中、

体操競技、個人種目別「跳馬」に出場した山下治広。

 

2回の跳躍で争うこの種目で、

彼が「1回目」の演技に選んだ技は

「ヤマシタ跳び」でした。

 

結果は「9.80」

自らが生み出した本家本元の美しい演技に

会場は酔いしれました。

 

しかし山下選手にとってオリンピックまでの長い道のりは

全て、この日の「2回目」のためにあったのです。

 

***************************

 

昭和39年オリンピックの金メダルを獲得したその年、

日本体育大学体操部の後輩と結婚。

婿養子となり、以後、松田姓となりました。

 

その後、松田さんは、この大学の体育学科長を務め

塚原、監物、藤本といったモントリオールの金メダリストを

指導するなど

これまで体操一筋の人生を歩んできました。

 

*****************************

 

「毎日、練習するでしょ。

 すると色々な種目が出来るようになるじゃないですか。

 それが嬉しくてね。技の習得というのは物凄く喜びでしたね」

 

宇和島東高校体操部のエースとして活躍した山下さん(当時)は

その後、母校の先輩でオリンピックメルボルン大会のメダリスト

「河野 昭選手」を慕い、

昭和32年、日体大に進学しました。

 

しかしその後、全国から集った精鋭たちの中で

伸び悩んだ山下さんは

2年間で芽が出なければ、

宮崎の航空大学に行こうと考えていました。

 

しかしそんな矢先、

山下さんの体操人生に大きな転機が訪れたのです。

 

「河野昭さんが宇和島に帰ってこられて、

  オリンピック選手を連れて。

 で、自分も一緒に演技することになったんです。

 

 

 でも自分だけ失敗ばかりして、辱しめを受けましてね。

 東京に帰って、朝5時から練習に励むようになったんです。

 あれがなければ、今の私はなかったかもしれません」

 

*****************************

 

そしてその後は着実に力をつけ

迎えた昭和37年プラハの「世界選手権」の跳馬で

超難度の技を披露し「第2位」に。

 

踏切板を普通より後ろにずらし、

高さと距離を出すその跳び方こそ、

世界で高い評価を得た「ヤマシタ跳び」でした。

 

しかし―

 

「ヤマシタ跳びで世界選手権2位になりました。

 東京オリンピックは2年後だから、すぐ真似されるだろうと。

 私自身、東京オリンピックに出る以上は

 個人の金メダルが絶対に欲しかった。

 そのためには「跳馬」しかなかった」

 

ヤマシタ跳びの成功に酔う間もなく

その改良に着手した山下選手は

着地手前の空中で「ひねり」を1つ加えることを決断。

 

トランポリンで空中感覚を覚えるなど

その後の2年間はそっくりそのまま

金メダルのためだけに費やされました。

 

***********************************

 

そして迎えた1964年10月。

ついに「新ヤマシタ跳び」の

ベールを脱ぐ日がやってきたのです。

 

「あまり負担とか、心理的動揺はありませんでした。

 ただ、種目別の時に、選手村に試合ズボンを忘れましてね。

 慌てて取りに行ってもらって。

 それくらい抜けている所があるんですよ(笑)」

 

*****************************

 

1回目、「ヤマシタ跳び」で9.80を出し

全てをかけて迎えた、この日2回目の跳躍。

 

「自分が今までやってきたことは絶対に間違いない。

 やってきたことだけ やればいいんだ」

 

 そして強く踏切り、両手で跳馬を突きはなし、

 高く舞い上がった山下選手の体は

  鮮やかに1回転のひねりを加え

   そして見事着地に成功しました。

 

*****************************

 

この「新ヤマシタ跳び」で9.80を出した彼は

念願の種目別金メダルを獲得。

日本体操チームの団体総合優勝にも大きく貢献しました。

 

 

「オリンピックには、怪物というか...何が起きるか分からない。

 何が出てくるか分からない。

 十分に準備したとしても、無になる場合もあるし。

 しかし十分にやってこなければ、

 その怪物に立ち向かうことは出来ない」

 

 

 

幼い頃、新しい技のマスターに夢中になっていた治広少年が

「世界のヤマシタ」になった1964年、東京オリンピック。

 

あれから半世紀、

 今も輝き続ける栄光の1ページです。

 

 

 (49年前、愛媛に聖火が到着した「9月12日」に)

 

 

 

2013年6月12日(水)

少年が見上げた「1本の木」

木立の向こう、

練習グリーンをはさんで

画面中央の低木の先にある1本の木。

 

 

 

s-木 IMAG1018.jpg

 

 

 

わかります?

 

どれ?

 

 

 

まあ、そこに何の変哲もない木があります。

高さは7~8メートル。

 

 

この木を見て、何をするか・・・

 

 

きょうのように暑ければ、

いい日影ができそうです。

一休みするにはもってこいでしょう。

 

 

ある日、一組の親子がこの木を見上げました。

 

 

「越してごらん?」

 

父親は少年に言いました。

 

 

 

 

すると少年は、

「クラブ」を握り

目の前の木を見上げました。

 

 

父親のラウンドにくっついて行っては

その練習グリーンで黙々とボールを叩いていた少年。

 

そしていつしか少年は、「木越え」に成功します。

 

 

 

少年は十数年後、ゴルフのとても上手な若者に成長しました。

 

 

 

 

 

少年の名は「松山英樹」。

 

 

場所は松山市の北条カントリー倶楽部。

 

 

今も、多くの子供たちが

この木を見上げているかもしれませんね。

 

 

そしてきょうも

松山英樹選手はクラブを握ります。

 

 

 

 

 

2013年6月 3日(月)

サイクリストの神!?

梅雨入り前の週末、

「とびしま海道」へ

五月晴れの走り収めをしてきました。

 

吸い寄せられるようにたどり着いたのは

この神社。

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ここは広島県の「大崎下島」の「御手洗地区」にある

「天満神社」。

 

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なぜここなのか。

それは自転車こぎたるもの

一度は触れておかねばならない人物がいたのだった。

 

s-d.jpg  

 

「中村春吉」

日本人で初めて、 自転車で世界一周をした人なのだ。

 

1902年から、中国、東南アジア、インド、

中近東、ヨーロッパ、アメリカを

1年間かけて回ったという。

 

 

s-c.jpg

 

へ~っ。

でも、このあとなぜか・・・

 

私の自転車、後輪がパンクした。

境内入口のわずか2段の石段の角で。

理由不明・・・

シューッって。なぜ・・・

中村さん怒らせた?

 

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とびしま海道、この日は快晴。

岡村島~大崎下島~豊島~下蒲刈島~上蒲刈島と

次々に橋を渡って、

最後にスカイブルーの安芸灘大橋を渡って

本州にゴール。

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S記者とともに、愉快な50キロでした。

 

今やすっかり梅雨入りです。

 

 

 

 

 

 

 

2013年5月29日(水)

ガンバ大阪を支えるもの

ガンバ大阪が来て

ニンジニアスタジアムに1万人が集まって

駐車場が混んで

濃密な半日が過ぎた。

 

90分の試合時間はもちろん

試合前後における碧いうねり全体が

橙色文化を刺激し続けた。

 

s-ガンバ1 IMAG1001.jpg

 

電光掲示板側、ガンバサポーター席への通路。

この横断幕を選手が見ることはない。

サポーターが自らに課したテーマ・・・

 

声を枯らし、旗を振る、跳ねるだけでなく

時に選手を叱咤激励するために

「鬼」になる決意を固めるのだろう。

 

チーム愛―

 

s-ガンバ2 IMAG1005.jpg

 

試合開始1時間前のガンバのゴール裏。

静かだが、熱い。

 

 

 

 

2013年5月16日(木)

ヒルクライム ~初夏編~

新緑の季節ですね。

 

こちらは、西日本最高峰「石鎚山」へ向かう爽快な道。

 

石鎚スカイラインです。

 

s-あ IMAG0643.jpg 

 

 

 

自転車で走ると、爽快さは何倍にもなりますよ。

 

 

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辿り着いた所は、

石鎚山登山道入口にある「土小屋」。

標高1492メートル。

ずばり「いよのくに」...覚えやすいですね。

 

 

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空気もピリッとするなか、

初夏の日差しを浴びてのヒルクライム。

苦しいながらも、達成感は最高でした。

 

 

 

2013年5月15日(水)

猛虎打線を支える「105番」

プロ野球四国初の3連戦。

 

こちらはJR市坪駅の様子です。

通称「の・ボール駅」

もちろん正岡子規にちなんでのものですが、

小さな駅が大混雑!

 

それでも、なにか嬉しくなる光景でした。

 

s-あ IMAG0820.jpg

 

それにしても、

「強い阪神」の勢いそのままの3日間でしたね。

 

メッセンジャーの完封劇にうなり、

岩村明憲の4三振に人生を感じ、

鳥谷のシュアな打撃に基本の大切さを噛みしめ、

筒井和也の成長ぶりに目を細め

バレンティンの規格外のパワーに圧倒され

新井の豪快な一発に松山との相性の良さを再確認しました。

 

そんな中・・・

試合前のマウンドで「めった打ち」にあっている

投手がひとり・・・

 

s-い IMAG0831.jpg

 

 

背番号は「105」番。

阪神のバッティング練習で打撃投手を務めていたのが

 

 

「小山内大和さん」

 

 

元愛媛マンダリンパイレーツのピッチャーです。

 

2005年から3シーズンプレーし、

抜群の制球力と90キロ台のスローカーブを駆使しながら

バッターを手玉に取っていた姿は痛快そのものでした。

 

一見、「寡黙」に見えるその佇まいも

「芯の強さ」の裏返しで、

愛媛を離れた後も、富山サンダーバーズで現役を続け、

2008年には、北陸の独立リーグ「BCリーグ」で

最優秀防御率、最多勝、シーズンMVPにも選ばれるなど

自身の信念に基づき投球術に磨きをかけていたと聞きます。

 

翌年までプレーし、

2010年から阪神の打撃投手に転身した

小山内大和投手。

 

NPB選手という夢は叶わなかったものの

今、「猛虎打線」を間違いなく支えている「105番」は

以前にも増して、

投球フォームが大きく、大きく見えました。

 

 

「最近、パイレーツはどうですか?」

 

―みんな頑張ってるよ。

 

「来年、10年目ですね」

 

 そう一言つぶやいた「大和さん」は

ネット越しに、クールに微笑んでいました。

 

 

2013年5月 1日(水)

最強男復活!村上幸史

本当に驚いた。

正直ピークを過ぎたと思っていた。

とんでもなかった。

 

そんな思いを抱えながら

コーチの浜元一馬さんに話をお聞きした。

 

とても嬉しそうだった。

私も嬉しかった。

 

「85m96」

 

ついに村上幸史選手が85メートルの壁を越えた。

これまで費やしてきた気の遠くなるような時間全てが

報われた瞬間だっただろう。

 

ロンドンオリンピックでは

屈辱の予選落ちどころか

ディーン元気というアップカマーの

引き立て役にも甘んじた。

 

しかし村上選手は常々語っている。

 

「やり投げは単純。ルールも単純。強い者が勝つ。

 そんなやり投げが僕は大好きですからね」

 

 

浜元コーチに尋ねた。

―なぜ記録が出たんですか

 

「生活が規則正しくなったんですよ」

 

聞けば、村上選手はこの春から

母校、日本大学文理学部の准教授として

教壇に立っているという。

 

「火曜日から金曜日までに9コマ持っとるんですよ。

 だから練習時間が減った分、練習の質を高めていると

 本人も言ってました。

 それが良かったんじゃないですかね」

 

そしてさらに・・・

 

「周りの関係者みんなが『リラックスしてたのがよかった』  

 と話しとるんですよ。

 私が朝見たときは、80m位だと思ったんですがね」 

 

 

 

2013年4月29日。

陸上の織田記念国際、男子やり投げで

上島町生名島出身、村上幸史選手が

日本歴代2位の記録で優勝。

 

3投目に描かれた放物線は、

自己ベスト更新の「85m96」

 

周囲の雑音などよそに、粛々と準備を進めてきた村上。

その静かなる闘志と執念を

今、彼の目の前に座る学生たちは肌で学んでいる。

 

 

「継続は力なり」

 

 

s-IMAG0597.jpg

 

(この当時の自己ベストは83m10

 この大会では国内ベストの82m41で2位...)

 

 

 

私もブログを引退したわけではなかった・・・

 

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