高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2014年03月06日(木)

55歳の「楽しみ」

「僕が暗い分、みんな明るいですよ」

 

試合後、そう語る指揮官の表情は柔らかかった。

きっと現役時代もこんな感じで

お立ち台の上に立っていたのだろう。

 

 

天才、秀才たちの集団から、

雑草軍団の中へ飛び込み1か月。

素材の質の差を「伸びしろ」と捉え、道を説いてきた。

 

そして初のオープン戦。

 

愛媛6-0香川

 

 

「次の塁を狙う、相手の隙を突く、

 足の速い選手が多いので、楽しみな野球ができますね」

 

 

 

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愛媛マンダリンパイレーツ

 弓岡敬二郎 監督 55歳

 

(阪急~オリックス一筋30年)

 

 http://www.m-pirates.jp/

(more info.)

 

 

 

そこにある驚きを、全ての人の感動へ―

 

 

 

 

2014年01月15日(水)

銀輪通信 ~謹賀新年編~

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

すでに寒中見舞いの時期に入ってます。

最強寒波が襲来したその日を狙い!

走ってきました「周防大島」。

瀬戸内海に浮かぶ、山口県の金魚の形をした島です。

 

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見えますね。金魚に。

 

松山からは三津浜港から柳井フェリーで2時間半。

 

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柳井港に着いたら、一路東へ約8キロ。

大丈夫、まっ平らの道です。 

 

加えて・・・

 

 

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自信たっぷりな道案内もいて、

まことに心強い限りです。

 

すると、ほどなく「大島大橋」が見えてきました。

 

 

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この時、気温1度・・・

固まった空気を溶かしながらペダルを踏んでいくと・・・

 

 

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日差しの有難さ、太陽の偉大さに、溶けます!

 

 

そして大島大橋を渡り、島を時計回りに進めば、

道幅は広く、舗装され、

進行風のみ、向い風なしのパラダイス。

 

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ご存じのとおり、山口県はガードレールは黄色です。

理由については、どうぞ「ググっ」てみてください。

 

 

 

さて周防大島は、明治時代に多くの島民がハワイに移民したため

ハワイとの絆も深く、96年にはカウアイ島と姉妹都市に。

雰囲気出てます。

 

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そして、、、東の端で、歴史に学び・・・

 

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島の南で「厳島神社」に祈り・・・

 

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ぐるっと一周、120キロ!

(道を間違えた分を含めますが。。。)

 

新しい年の始まりに、心地よいサイクリングでした。

 

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(大島大橋より瀬戸内海を眺める)

 

 

そこで一句!

「スマートフォン  着信のたび  手袋外し」

 

おそまつです。

でも、ニュース「キャッチあい」でOAしてしまったのでした・・・

 

 

 

2013年12月23日(月)

「りん」と「わ」

「今年の漢字」は「輪」でしたね。

 

発表前日の放送で・・・

 

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私の漢字も発表しました。

 

 

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少し見ずらいかもしれませんが・・・

 

私も 「輪」 でした。

 

発表前日の放送ですよ!

 

次の日、年末ジャンボを買いに行きました。

 

でも、私はこれを、

「りん」 

からイメージして書きました。

 

「銀輪」・・・そう、自転車のことを「銀輪」っていいますね。

「わ」ではありませんでした。

でも結果オーライです。

 

ただ、来年の私の漢字は今年以上に

「輪」になりそうな予感です。

 

以上、時期がずれた報告でした・・・

 

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(石鎚山 土小屋付近から)

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年12月11日(水)

銀輪通信 ~初冬編~

初冬のサイクリングは最高です。

空気が澄んでて景色が際立って見えます。

しかも汗をかかずに快適です。

ドリンク代もかかりません。

でも、水分はしっかり取りましょう~

 

さてこの日のスタート地点は、「愛媛県伊予市」

なぜかと言いますと・・・

 

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この地図は愛媛県観光物産課発行の「疾走マップ」。

えひめをサイクリングパラダイスに!のスローガンのもとに

県内おすすめ10コース +  しまなみ海道

のサイクリングコースが紹介されているものなんです。

 

その⑤番目が「伊予灘シーサイド・がんがんチャレンジ」コース、

略して「がんチャレ」・・・でも、地図だけ見てると海沿いだしとても楽しそうなコース!

に見えるじゃありませんか・・・   ふう

 

とにかくスタートしました。

 

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しまなみ海道ではおなじみのブルーラインですが

行先は「三崎港」!

しっかり目標設定されています。

ちなみに80キロ先です。

 

 

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伊予市を抜けると、双海町へ。

真っ青な海を横目に

「夕やけこやけライン」を快走です。

 

すると・・・

 

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馬です。

こちらは大洲市長浜町にある「南予ふれあい乗馬クラブ」。

のどかです。

 

そして肱川にたどり着くと・・・

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「長浜の赤橋」です。

逆光で黒く見えますが、肱川あらしで有名ですね。

 

さらに海沿いを走り、

「ごぜが峠」を越えると「八幡浜市」。

いよいよ、日本一長い半島、「佐田岬半島」の始まりです。

 

(上の地図に戻って確認しましょう~)

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伊方町に入りました。原発もあります。

でも目を奪われたのは、やはりこの「風車」

 

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巨大な風車がずらっと並んでいます。

再生可能エネルギー 

でも、ブン、ブン、ブンと空気を切る音には少々怖さも感じます。

 

 

道の左側で何か引っ張っている人たちが・・・

 

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でも、止まってよく見たら人形でした。

座っている方もロープを引っ張る構えを崩さず

やる気満々です。

 

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佐田岬半島の南側。

陽光きらめく宇和海が美しく広がっています。

 

 

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そして道の駅「瀬戸町農業公園」前にくると

どこからともなく聞こえてくるのは

どこか音程の外れた「みかんの花咲く丘」。

♪♪みか~んのは~なが さ~いて~いる~」

そう!

 

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これがメロディラインたる所以、

車が連なっていると、

まるで「輪唱」のように聞こえてきます。

あ、わかります?

 

そんなこんなで80キロ。

アップダウンと向かい風に

少々後悔しながらも?

無事に「三崎港」に到着しました。

穏やかな風景が広がっています。

 

 

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で・・・?

三崎には電車の駅はありませんね。

はい、来た道を戻るんです。

 

さっきの下りは上り道、

あの時の上りは、一転してパラダイスな下り坂に~。

人生みたいなものです。

 

JR八幡浜駅まで戻ること40キロ。

合計120キロ。

初冬の「メロディライン」。

きっとあなたを待っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年11月26日(火)

銀輪通信 ~晩秋編~

 

先日、晩秋サイクリングに出かけました。

 

s-IMAG2593.jpg A.jpg

 

松山市は北条地区から東へ向えば

高縄山の稜線もくっきりと

ペダルを踏むのも軽やかに・・・

 

 

s-IMAG2596.jpg B.jpg

 

少し走ると

せせらぎの音も心地よく

澄んだ流れも軽やかに・・・

 

s-IMAG2612.jpg C.jpg

 

いそぐ理由も特になく

景色に止められ小休止。

静かな道です

 

この後、笹ケ峠を越えて下って

玉川菊間線に入って

キコキコ、ヒルクライムして下り坂にさしかかると

 

 

s-IMAG2624.jpg DP.jpg

 

こんな道が待ってました

右へ左へ

左へ右へ

全然終わらない下り坂・・・

すると突然!

 

s-IMAG2630.jpg E.jpg

 

滝です。

轟々と水量豊富で絵になります。

 

「歌仙の滝」といいます

菊間町の魅力再発見!

 

次は春に訪れてみたいサイクリングコースです。

 

(松山~196号バイパス~北条北中前左折~

 笹ケ峠~玉川菊間線~菊間町~海沿い196号~松山)

 

 

 

 

 

 

2013年10月25日(金)

しまなみサイクリング2013

2013年10月20日。

 

よりによっての大雨に、今治メイン会場への車中では

思わず無口になった午前5時。

佐野元春!を聞きながら、

きょうは全てを受け入れようと覚悟を決めました。

 

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(受付でもらったゼッケンとタオル)

 

すると今治新都市のスタート会場には、すでに大勢のサイクリストが

色とりどりのウエアに身を包み、

笑顔をたたえながら雨を楽しんでいました。

 

110キロの大三島コース。

しかも!「高速道路本線」を走れる奇跡。

 

愛知からきた男性は

「雨が降ろうが、槍が降ろうが、走ります!」

 

雨に煙るしまなみ海道 

私の心も決まります。

 

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(午前8時のスタート直前 3000人がズラーッと向こうまで)

 

 

颯爽と・・・  実は、雨を飲みながらの激走~

 

s-DSC02520.jpgs-IMAG2374.jpg

 

それでも走り出せば、やっぱりそこは「聖地」しまなみ。

多島美に癒されながら

沿道の声援にエネルギーをいただきながら

みんな「風」になっていきます。

 

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でも、上り坂に差し掛かると・・・

 

 

 

 

s-DSC02523.jpg

 

息も絶え絶え・・・ 

ももはプルプル・・・

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(大三島 WEST SEASIDE コース)

 

雨もあがりました。

ブルーラインがシーサイドコースを引き立てています。

 

 

 

s-IMAG2388.jpg  ゴール.jpg

(ゴールの今治新都市にて)

 

8時間の制限時間をめいっぱい有効活用して!?

M記者、S記者とともに、110キロを完走しました。

本当に島の地元の方々の沿道での声援が心に残った一日でした。

来年10月26日の世界大会が、今からホントに楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

2013年09月25日(水)

「ため息」の重さは

クルム伊達公子が東レパンパシフィックで激高した

観客の「ため息」問題。

 

クルム伊達が第2セットのタイブレークで、

最初のポイントをダブルフォルトで失い

「あ~」の声が漏れ響くと

クルム伊達は「ため息ばっかりっ」と

怒りの交った大声をコートに響かせた。

 

日本のテニス会場に行くとわかるが

レベルが上がれば上がるほど

静寂のあとの拍手またはため息が、

同じような強さで響いているように感じる。

 

 

かつてメルボルンで全豪オープンテニスを観戦したことがある。

そこで驚いたのは、その賑やかさだ。

まるでビーチバレーかフットサルの会場にいるかのような

「スタンドの盛り上がり」を目の当たりにした。

 

国旗を顔にペイントし、立ち上がって旗を振り、

ポイントをあげればもちろんのこと、

ダブルフォルトをしようがしまいが、

声援がなかなか収まらない。

 

とにかく贔屓の選手を応援しまくる。

そしてレフリーから

何度も静寂を求める「サンキュー」の声が響き

ようやく次のサーブ。

 

ちなみに私が観戦したのは1、2回戦のコートで

センターコートではないが、

トーナメントの終盤でもその雰囲気は続いていた。

 

 

個人的な感想だが、日本のファンは

良くも悪くも「勝敗」を意識しすぎるのかもしれない。

「一発勝負のトーナメント文化」が浸透しているからだ。

次がない、後がない状況に追い込まれた中での勝負が好きだ。

 

 

幼い頃から「リーグ戦文化」で育っていればこうはならない。

その一戦に敗れても「次」がある。

次に挽回できるチャンスがある。

 

選手も観客もそう思っているから

大勝負にも出れるし、伸び伸びプレーできるし、

少々のミスにも大きな心で対応できるのかもしれない。

 

「クルム」と「伊達」 

 

2つの文化を知る彼女らしいと思った。

 

 

 

2013年09月24日(火)

安楽投手 伝説の末に訪れた痛み...  

安楽が肘を痛めた。

 

2013年9月22日(日)

四国高校野球県大会1回戦。

坊っちゃんスタジアムの第2試合。

 

「異変」はすでに1回表から明らかだった。

 

「投球練習の7球目」

この時点で肘に違和感を感じたという安楽は

先頭打者をレフトフライに打ち取ったが

2番打者の途中から投球間に肘をブルッブルッと振り始める。

 

その後、ランナー2塁3塁から

続く左打者に球威のないインハイをライト線へ運ばれ

2点を先制された。

 

そして迎えた「3回」。

実は安楽の降板を加速させた出来事があった。

 

ノーアウト1塁3塁で、西条は2盗を仕掛ける。

キャッチャーはすかさず送球・・・

 

しかしこれを長身安楽は

グラブを差出しカットするや否やバックホーム...

3塁ランナーの本盗を見事に阻止した。

 

しかし、「不意の送球」に

意識的にかばっていたはずの肘周りの筋肉は

体に染みついている「本能的な」動きに支配され

無防備のまま「1球」を投じてしまった。

 

そして次のバッターへの初球、

ボールは想定した軌道を大きく外れ、

右打者の胸元をかすめた。

 

安楽はここで自ら降板を訴え、

ついにマウンドを明け渡した。

 

しかし・・・この直後さらに安楽を不運が襲った。

 

ランナーは満塁。

2番手投手はサウスポー。

続く西条は左バッター。

 

外のボールで勝負に行くと

ひっかけた打球は1、2塁間を破った・・・

 

ライトは「安楽」。

 

前進してきた安楽はぎこちなくグラブにあててボールを掴むと

すかさず、素早いモーションでホームを狙い

右腕を振り切った・・・

 

ホームは間に合わなかった。

しかしそれ以上のことがすでに外野の芝の上では起きていた。

 

 

この回2度目の「不意の送球」に

安楽は体を折り曲げ、

右ひじの内側を左の親指で圧迫させながら

激痛に顔を歪めた。

 

 

 

 

s-IMAG2200.jpg

 

 

**************************

 

 

春のセンバツ準優勝、

夏の愛媛大会157キロ、

甲子園最速155キロ、

台湾での18U野球ワールドカップ準優勝とベストナイン。

 

有り余る才能と規格外の球威、

そして躍動感あふれるピッチングフォーム...

「一高校生の部活動」と理解しながらも

多くの高校野球ファンがその限界値を知りたがり

彼の一挙手一投足に注目した。

 

しかしその一方で「投球過多」による不安は常につきまとい

その表裏一体のギリギリの攻防が

またさらに「16歳」の少年を輝かせたのも事実で、

無限の可能性という幻想に酔ってしまったファンも

少なくないだろう。

 

しかし、安楽は肘を痛めた。

 

 

*******************

 

春のセンバツ以降、私は2人の投手を取材し、

その肉声を放送した。

 

1人は、元北海道日本ハムで

愛媛マンダリンパイレーツの投手「金森敬之」。

 

「あれだけ投げられて、正直羨ましいなと思いますよ」

安楽のピッチングへの感想だ。

 

金森は東海大菅生高校から2004年、日本ハムに入団すると

07年に4勝、その後も先発、中継ぎと毎年10試合以上

1軍のマウンドで活躍してきた。

 

ところがおととし春、右ひじの靭帯を損傷。

去年3月には右ひじ側副靭帯の再建手術を受けたが、

オフには「戦力外通告」を受けていた。

 

 

「僕はどちらかというと、投げて投げて、打たれてまた投げて

みたいな感じでやってましたが、その反動が来たと思うんです。

でも投げないとつかない体力もあるし

投げないとつかない筋力もあるので、

そこは難しいところなんですよね。

でも、ケガをしたら負けですよ」

 

 

華やかなNPBの世界を後にした金森は

今シーズン、独立リーグから復活を期し、

慎重にリハビリとトレーニングを重ね、

後期リーグには中継ぎ投手の切り札として

活躍するまでになった。

 

「シーズン初めが、今の状態だったらね」

言葉に悔しさはにじむも、その表情は晴れやかだった。

 

「投げられる」ということが

 野球人にとって、投手にとってどれだけ意味深いことか。

 

***************************

 

そして、夏の甲子園後に取材したのが

ジャイアンツや近鉄で活躍した「打者」吉岡雄二。

 

しかしかつては、

東京の帝京高校を夏の甲子園初優勝に導いた

「背番号1」だ。

 

1989年夏の甲子園で

吉岡は全5試合に登板し、3試合を完封、わずか1失点。

圧巻の内容で全国制覇を達成した。ところが・・・

 

大会終了後に行われた国際試合、「日韓米高校親善野球」。

ここで吉岡の肩は悲鳴を上げたのだった。

 

「振り返れば、やっぱりすごく疲労がたまっていて、

 甲子園で緊張している中で何試合も投げて、

 その後に1回気持ちが楽になった状態でまた投げた時に、

 気持ち的には大丈夫だったが、

 やはり...  そこで肩を痛めたんです」

 

結局、吉岡は

この年のドラフトでジャイアンツに入団するが、

すぐに右肩を手術。「打者転向」を余儀なくされた。

 

ただ、この時吉岡はこうも付け加えている。

 

「僕も高校の時、本当に3連投、4連投を経験しているんですが

 (プロ入り後は)高校生の時の、精神的な強さだったり、

 その時に培ったものもすごく大きかったので」

 

そして最後にこう語った。

 

「高校生は投げませんとは言いませんからね。

 高校生を止めるのは大変なことです。

 だからこそ指導者には

 冷静な判断をしてもらいたいなと思いますね」

 

**************************

 

実は高校時代、キャッチャーだった私も

肘を故障した経験がある。

 

最もひどい時にはピッチャーまでボールが届かなかった。

鍼を打ち、灸を据え、テーピングをし、握力を鍛え、

そして軟膏のモビラートを擦り込み、

夏でも冷やすまいとサポーターを巻きつづけた。

学校、グラウンド、治療院、学校、グラウンド、治療院・・・

 

朝起きて、ボールを握って

もしかしたら、きょうは痛くないんじゃないか・・・

 

希望と落胆の繰り返し。

 

最後の夏が近づく中、まともに練習できず、

試合でも本来の力を出し切れない。

 

それでも本番になったら「腕が折れても...」

という覚悟は出来上がっていたように記憶している。

 

 

将来?何を言ってるんですか。

何のためにここまでやってきたんですか―

 

 

**************************

 

日々、前のめりになって野球をしている球児たちに

冷静な判断を求めるのは難しい。

 

でも、最後は本人が決める。

 

それもそうだ。

 

 

ただ、あんなに面白い「野球」という競技を

将来に渡って「見るだけ」にしてしまうのは、

あまりにももったいないと思う。

 

 

 

 

2013年09月12日(木)

「世界のヤマシタ」から49年、再び・・・

2020年東京オリンピック開催が決まりました。

受け止め方はもちろん人それぞれですが

素晴らしき世界史の1ページが目の前で繰り広げられると思うと

今から、湧き立つ興奮を抑えきれませんね。

 

そして今回の開催に深みと興味を与えているのは

なんといっても、「東京」は2度目ということです。

 

49年前の1964年、昭和39年、

日本国民にとって、まさに未知との遭遇であった

世紀のスポーツ祭典「東京オリンピック」。

 

そこで見事、金メダルに輝いたのが

宇和島市出身の山下治広選手。(現姓:松田)

体操ニッポン、あの「ヤマシタ跳び」の山下選手です。

 

「今も忘れない...往年のメダリスト」

 今回は「山下治広選手」。

 96年7月2日の放送分からです。

 

***************************

 

東京、千駄ヶ谷の国立競技場から

西に5分ほど歩いたところにある

東京体育館。

 

今から49年前の10月23日。

ここで一人の愛媛県人が、

我が国の体操界に新たな歴史を刻みました。

 

1964年、第18回東京オリンピック。

連日繰り広げられる世界トップクラスの技に

日本中が湧く中、

体操競技、個人種目別「跳馬」に出場した山下治広。

 

2回の跳躍で争うこの種目で、

彼が「1回目」の演技に選んだ技は

「ヤマシタ跳び」でした。

 

結果は「9.80」

自らが生み出した本家本元の美しい演技に

会場は酔いしれました。

 

しかし山下選手にとってオリンピックまでの長い道のりは

全て、この日の「2回目」のためにあったのです。

 

***************************

 

昭和39年オリンピックの金メダルを獲得したその年、

日本体育大学体操部の後輩と結婚。

婿養子となり、以後、松田姓となりました。

 

その後、松田さんは、この大学の体育学科長を務め

塚原、監物、藤本といったモントリオールの金メダリストを

指導するなど

これまで体操一筋の人生を歩んできました。

 

*****************************

 

「毎日、練習するでしょ。

 すると色々な種目が出来るようになるじゃないですか。

 それが嬉しくてね。技の習得というのは物凄く喜びでしたね」

 

宇和島東高校体操部のエースとして活躍した山下さん(当時)は

その後、母校の先輩でオリンピックメルボルン大会のメダリスト

「河野 昭選手」を慕い、

昭和32年、日体大に進学しました。

 

しかしその後、全国から集った精鋭たちの中で

伸び悩んだ山下さんは

2年間で芽が出なければ、

宮崎の航空大学に行こうと考えていました。

 

しかしそんな矢先、

山下さんの体操人生に大きな転機が訪れたのです。

 

「河野昭さんが宇和島に帰ってこられて、

  オリンピック選手を連れて。

 で、自分も一緒に演技することになったんです。

 

 

 でも自分だけ失敗ばかりして、辱しめを受けましてね。

 東京に帰って、朝5時から練習に励むようになったんです。

 あれがなければ、今の私はなかったかもしれません」

 

*****************************

 

そしてその後は着実に力をつけ

迎えた昭和37年プラハの「世界選手権」の跳馬で

超難度の技を披露し「第2位」に。

 

踏切板を普通より後ろにずらし、

高さと距離を出すその跳び方こそ、

世界で高い評価を得た「ヤマシタ跳び」でした。

 

しかし―

 

「ヤマシタ跳びで世界選手権2位になりました。

 東京オリンピックは2年後だから、すぐ真似されるだろうと。

 私自身、東京オリンピックに出る以上は

 個人の金メダルが絶対に欲しかった。

 そのためには「跳馬」しかなかった」

 

ヤマシタ跳びの成功に酔う間もなく

その改良に着手した山下選手は

着地手前の空中で「ひねり」を1つ加えることを決断。

 

トランポリンで空中感覚を覚えるなど

その後の2年間はそっくりそのまま

金メダルのためだけに費やされました。

 

***********************************

 

そして迎えた1964年10月。

ついに「新ヤマシタ跳び」の

ベールを脱ぐ日がやってきたのです。

 

「あまり負担とか、心理的動揺はありませんでした。

 ただ、種目別の時に、選手村に試合ズボンを忘れましてね。

 慌てて取りに行ってもらって。

 それくらい抜けている所があるんですよ(笑)」

 

*****************************

 

1回目、「ヤマシタ跳び」で9.80を出し

全てをかけて迎えた、この日2回目の跳躍。

 

「自分が今までやってきたことは絶対に間違いない。

 やってきたことだけ やればいいんだ」

 

 そして強く踏切り、両手で跳馬を突きはなし、

 高く舞い上がった山下選手の体は

  鮮やかに1回転のひねりを加え

   そして見事着地に成功しました。

 

*****************************

 

この「新ヤマシタ跳び」で9.80を出した彼は

念願の種目別金メダルを獲得。

日本体操チームの団体総合優勝にも大きく貢献しました。

 

 

「オリンピックには、怪物というか...何が起きるか分からない。

 何が出てくるか分からない。

 十分に準備したとしても、無になる場合もあるし。

 しかし十分にやってこなければ、

 その怪物に立ち向かうことは出来ない」

 

 

 

幼い頃、新しい技のマスターに夢中になっていた治広少年が

「世界のヤマシタ」になった1964年、東京オリンピック。

 

あれから半世紀、

 今も輝き続ける栄光の1ページです。

 

 

 (49年前、愛媛に聖火が到着した「9月12日」に)

 

 

 

2013年06月12日(水)

少年が見上げた「1本の木」

木立の向こう、

練習グリーンをはさんで

画面中央の低木の先にある1本の木。

 

 

 

s-木 IMAG1018.jpg

 

 

 

わかります?

 

どれ?

 

 

 

まあ、そこに何の変哲もない木があります。

高さは7~8メートル。

 

 

この木を見て、何をするか・・・

 

 

きょうのように暑ければ、

いい日影ができそうです。

一休みするにはもってこいでしょう。

 

 

ある日、一組の親子がこの木を見上げました。

 

 

「越してごらん?」

 

父親は少年に言いました。

 

 

 

 

すると少年は、

「クラブ」を握り

目の前の木を見上げました。

 

 

父親のラウンドにくっついて行っては

その練習グリーンで黙々とボールを叩いていた少年。

 

そしていつしか少年は、「木越え」に成功します。

 

 

 

少年は十数年後、ゴルフのとても上手な若者に成長しました。

 

 

 

 

 

少年の名は「松山英樹」。

 

 

場所は松山市の北条カントリー倶楽部。

 

 

今も、多くの子供たちが

この木を見上げているかもしれませんね。

 

 

そしてきょうも

松山英樹選手はクラブを握ります。

 

 

 

 

 

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