高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2011年12月 3日(土)

元木さん発、「国立」経由、向井さん行き

その日、「日本のラグビー」は、私の目の前でこう語った。

 

「タックルする直前に脳裏をよぎる不安。

  それは痛みへの恐怖ではありません。

   自分の力を100%出しきれるかどうかが不安なんです」

 

あの日、「6万の国立」の地響きのような唸り声の中

誰よりも低く相手に突き刺さっていった紫紺の「12番」。

 

「元木由記雄」

 

日本ラグビー史上、最も敵にしたくない選手の1人である。

 

「気持ちが充実していれば、何本タックルに行っても全く平気なんです。

 問題は、そこまで気持ちをもっていけるかどうか。

 試合によってはそこまでの試合じゃない場合もある。

 大学選手権、日本選手権の国立ならば

 もう自然に気持ちも入っているんです。

 ただ、そこまででない試合もある。その時、どうするか。

 問題は全て自分自身にあるんです」

 

大阪工大高。いわゆる「ダイコウダイ」の1年の時には

すでにその名は業界中に知れ渡り、

高2、高3では当然のように「高校ジャパン」。

 

そして「メイジ」の1年からレギュラーに定着すると、

その後、大学日本一に「3度」輝いた。

 

「ラグビーの魅力。それは、ボールに思いがあること。

 ラグビーは、ただボールを横の人に回すだけではないんです。

 ひとりひとりの思いが、ボールに重なって回していくという

 競技なんです」

 

核心へ、言葉はパスを繋いでいく。

 

「痛い思いをしたヤツのお陰でこのボールが手元にある。

 だからミスは出来ないし、だからそいつのために

 『走るぞっ』と心が決まるんです」

 

そして、仲間の思いが結実する瞬間が訪れる。

 

ラグビーから学んだこと―

 

「仲間を裏切らない。

 仲間を裏切らないというのは、体を張り続けること。

 自分の力を常に出し続けること。

 そうしないと仲間からも認められないですから」

 

そんな「心」は、さらに神戸製鋼で花開き、

「骨軋むタックル」はさらに研ぎ澄まされ、

積み重ねた代表キャップ「79」は歴代1位。

国内唯一となるワールドカップ4大会連続出場。

その鈍く光る刃は、17年間に渡って味方を鼓舞し、

相手を恐怖に陥れた。

 

「好きなんでしょうね、タックルが」

 

その「モトキ」が、一目置く存在がいた。

2003年ラグビーワールドカップ。

桜のジャージの12番は、試合後、

血にまみれた1人の男の存在に目を奪われた。

 

「ワールドカップの時なんですが、机を叩いたらしくて。

 試合終わったら流血しているんですよ。

 僕らでさえ、そこまでいかないのに。

 足もケガしてたかな、もうホントにアツイ方で。

 でも、この人のために頑張ろうかという気にさせる方ですよ」

 

「向井昭吾」監督。

 

人呼んで「闘将向井」。

新田高校ラグビー部出身では2人目のジャパン監督だ。

2001年から代表監督を務め、

その「向井ジャパン」の主要メンバーだったのが元木だ。

 

「言っている事とやっている事が一致している人。

 表裏の全く無い人です」

 

その向井監督率いる「コカ・コーラウエスト」と

元木さんがアドバイザーを務める「神戸製鋼」が

あさって、ニンスタで公式戦を戦う。

 

真に、ラグビー界は繋がっていて愉快だ。

 

*******************************

 

 

その向井監督が選手時代の日本選手権決勝。

1988年1月15日、

社会人王者の東芝府中は早稲田に敗れた。

 

「アカクロ」が「ブルージャージ」を破った―

 

6万人で膨れ上がった国立に早稲田の「荒ぶる」がこだまするのを

東芝府中のFB向井昭吾は悔しい記憶として胸に刻むのだが、

その早稲田を日本一に導いた男。

 

それが「鬼のキモケン」。

 

向井監督の大先輩、「新田高校ラグビー部出身」の「木本建治」監督だ。

 

大学生が社会人を破る快挙は

日本ラグビー史上、この日が最後となり

トップリーグが出来た今、今後も成しえないであろう

「記録」として刻まれている。

 

このシーズンの早稲田はもう1つ、

「記憶」に残る名勝負を繰り広げた。

 

1987年12月6日 「雪の早明戦」

 

前夜、雨は夜更け過ぎに雪へと変わった―

 

「勝ったぞ!これは神風や!」

 

早稲田・木本監督が、

永田キャプテンの電話に叫んだその言葉は歴史に刻まれた。

 

さらに―

 

その木本建治監督が早稲田の選手時代に遡れば

自身もやはり「早明戦」の歴史に名を連ねている。

 

ただ木本のそれは試練の足跡・・・

 

早稲田の歴史で唯一、2部で戦ったのが

1962年、「木本キャプテン」の時代だった。

 

この年、2部で全勝し、

1年での1部復帰を果たした「木本組」は、

勢いそのままに12月2日の秩父宮、「早明戦」に臨み、

17対8で明治を破った。

 

そしてここでも繋がる。

 

この試合の「明治のナンバー8」。

それは、新田ラグビー部時代のチームメイト

「烏谷忠男」だった。

 

その同級生対決の4年後にも、

早稲田では2人の愛媛人が躍動する。

 

7番フランカーは、松山東高校出身の「和泉武雄」。

9番スクラムハーフは新田出身の「山本 巌」

 

ともに2年生ながら「アカクロ」を身に纏い

1966年12月4日、秩父宮で明治を破っている。

 

その「山本巌」は後にサントリーを経て、

1980年、82年には日本代表監督を務めている。

それは新田ラグビー部出身としては初の代表監督就任であった。

 

一方の「和泉武雄」は、後に「東海大学ラグビー部」の監督に就任。

「防御のタックルこそ攻撃の始まり」という

 「アタックル」の理論を進化させ

  「アタックル」の上を行く一撃必殺「アタッキル」の精神を

     選手に植え付けたと聞く。

 

そしてその指導を全身に浴びたのが「闘将・向井昭吾」であり、

後に先輩、「山本 巌」に次ぐ「日本代表監督」が誕生するのである。

 

 

ふう、これでめでたく振り出しに...

 

嗚呼、なんとラグビー界は繋がっていることよ!

 

 

最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。

 

 

 

 

2011年10月28日(金)

初の100キロ越えは「とびしま海道」

日はとうに暮れたが、心は晴れていた。

 

広島県の呉港に着いたのは午後7時すぎ。

ペダルをこぎ続け、計6時間。

気がつけば、100キロ走っていた。

 

両足はパンパン。

運動不足なんだから当然だ。

 

でもこの達成感―

 

s-メーター.jpg 

(チャリのメーター)

 

 

 

 

 

午前10時に松山を出発し、

北風に心が折れそうになりながらも

196号を北上しながら午後0時半に今治港に到着。

 

 

s-今治港.jpg 

(今治港から 遠くに来島大橋が見える)

 

 

道中の写真は無い。

撮るまでもないほど車では何度も通った道だ。

 

しかしこんなに遠かったのか。

でも約40キロ。すでに自己ベスト更新でニヤリ。

 

ここから大三島ブルーラインで来島大橋をくぐる。

 

s-フェリー.jpg

(高速船で来島大橋の向こうへ)

 

 

そして午後2時前、

大三島の隣、広島県の「大崎上島」の木江(きのえ)港へ。

 

ここから「安芸灘とびしま海道」の旅が始まった。

 

 

裏しまなみ海道とも言われるこのルート。

しまなみほど、道路状況などは整備されていないが

素朴でゆったりした「島時間」こそが最大の魅力。

全国のサイクリストからも、今注目されているらしい。

 

 

s-地図.jpg 

(自転車雑誌の特集ページ 赤い線がとびしま海道)

 

 

 

大崎上島の木江港からは、まず明石港へ移動。

ここでフェリーに乗るのだが、時間が合わずいきなり1時間待ち。

それでも明石の港町は静かで、かなり静かで、とても静かだったので

私の心も次第に浄化されていくのを実感。

 

フェリーで約15分。

隣りの「大崎下島」に着いたのが、午後3時40分。

ここから秋の西日との競争となってしまった。

 

道中写真は無い。余裕も無い。

 

しかしこの「とびしま海道」には魅せられる。

ぜひ何かのHPで写真のチェックを。(スイマセン!)

 

 

そして「大崎下島」から「豊浜大橋」を渡って「豊島」へ。

さらに「豊島大橋」を渡って、次ぎの「上蒲刈島」へ。

 

そして「蒲刈大橋」を渡って「下蒲刈島」へ。

西日との競争にはあえなく敗れ、この時点で日没。

しかしなんとか「安芸灘大橋」を渡って本州へ。

 

そしてここから道路事情は一変、

呉市外を目指す国道185号は夕方のラッシュ。

黙々と白線の内側でアップダウンを繰り返し、

長~い自転車専用のトンネルを抜けて

呉の中心街をやり過ごし午後7時、呉港に到着。

 

最終便に間に合った。

 

s-呉港.jpg

(呉港の桟橋 向こうは造船所)

 

ここから石崎汽船のフェリーで約2時間。

 

のんびり揺られて松山へ。

 乗船してからの記憶はあまりない。

 

 

それでも100キロ!

 

道はやはり繋がっていた。

 

 

 

2011年10月17日(月)

背番号なき現役

その体育館には笑顔が溢れていた。

 

愛媛マンダリンパイレーツの「ファン感謝デー」。

毎年リーグ戦終了後に開かれる

ファンと選手、スタッフとの年に1度の触れ合いの場だ。

今年もゲームやクイズ、抽選会など大いに盛り上がった。

 

s-体育館.jpg

 

決して多いとはいえないものの、

ほぼ全ての試合に足を運ぶコアなファンを持つパイレーツにとって、

それは毎年、交流の場というよりも、

選手とファンが互いの労をねぎらうまさに「打ち上げ」の雰囲気となる。

 

ところがその「打ち上げ」には

現実に引き戻される瞬間が用意されている。

「退団選手」の発表と挨拶だ。

 

13人。

 

今年のメンバー24人の半分以上がチームを去る。

多くは現役引退を決意し

「第2の人生」に踏み出すことになる。

 

したがってこの日の笑顔は

野球選手のそれというよりも

年相応の「若者」たちの「精神的たくましさ」から来る

エネルギーなのかもしれない。

 

s-あいさつ.jpg 

(今季最終戦 坊っちゃんスタジアム)

 

 

 

「野球で夢を見続けたい」

 

様々な思いや過去を背に愛媛にやってきた若者たち。

野球漬けの毎日は想像どおりの世界だったろうか。

納得のいく毎日だったろうか。

 

野球人には、2種類の人間しかいない。

プロ野球選手になった者と

プロ野球選手になれなかった者。

 

しかし本当の「現役」と「引退」の線引きは

野球を愛し続ける人間と

野球を嫌いになった人間との間にのみ引かれているのかも。

 

この日、一線を退く決意を固めるために

野球から目をそらす方法を取った選手もいるかもしれない。

全てを注いできた「肉体的全力野球」。

それを手放す不安は想像に難くない。

 

s-あいさつ2.jpg 

(今季最終戦 最後の挨拶)

 

 

ただ、どうだろう。

野球の奥深さを知るのは、これからだったりして...。

大丈夫!

そう簡単に「現役」を退けられると思ったら大間違い!

 

パイレーツを巣立った多くのOBの

頭の中をどうぞ覗きに行ってみるといい。

160キロの快速球を投げ、

シーズン40ホーマーを放ち

アベレージ4割越えを果たすための理論が渦巻いているはず。

それは全て、生きるエネルギーに繋がっているように思う。

 

「背番号なき現役」

新たな野球人生の始まり―。

 

 

みなさん本当にお疲れ様でした。

またお会いしたいですね。

グラウンドで!スタジアムで!

 

 

PS:比嘉将太選手の「シーサー踊り」は一生忘れません。

2011年10月14日(金)

再起へ、「本能」の一投

今月10日、山口国体。

維新百年記念陸上競技場。

 

s-山口国体会場.jpg

 

現れたのは村上幸史。

国体の成年男子やり投げで優勝7回。

 

 

この日も、いつも通りの準備をして、

いつもと同じ色のメダルを手にすることは、

村上にとって決して難しい作業には見えなかった。

 

ところがこの時村上は

かつて経験したことのない心の揺れに苦しんでいた。

 

「新鮮な気持ちの中で試合を迎えられた反面と、

 不安を持って試合を迎えた反面と、

  そういった色々な思いが入り混じって・・・」

 

 

先月の世界陸上テグ大会。

 

村上は前回大会の「銅メダリスト」。

さらに日本選手団の「キャプテン」。

そして何よりも、

来年のロンドンオリンピックの表彰台に向け

目標は「85メートル」。

 

しかし「80メートル19」で15位。

まさかの予選落ちで戦いは終わった。

 

 

村上に、一体何が起きたのか―。

 

 

あの日、競技場で村上をサポートしていたのは

高校時代からの恩師、浜元一馬コーチ。

1投目の感覚のズレが明暗を分けたと分析する。

 

「たぶん本人の感触の中には82、3mの感触はあったと思う。

 それで80メートルというので、

 ちょっと自分の中であせりが出たのではないかと思う」

 

1投目のあと、浜元コーチは村上に声をかけている。

 

「少し肩の開きが早い」

 

肩が開くと、下半身のエネルギーが外に逃げ、

腕の振り幅も小さくなり、やりに力が伝わらなくなる。

 

「最後左足をつける時の左足の開きが早かったので、

 それを微調整するための方法としては、

  助走のスピードを上げるか、

   逆に下げるか、どちらかなんですよね」

 

そこで村上は1投目のあと、

助走の開始位置を「4レーン上」から「5レーン上」に変更。

スピードをあげ、肩の開きを抑えるためだ。

 

ところが―

 

予選3投目までにフォームの微調整は効かなかった。

 

 

「甘かったです」

 

 

この言葉を残し、村上は競技場を後にした。

 

失った感覚。

期待に応えられなかった悔しさ。

 

帰国後、村上の姿は

東京のナショナルトレーニングセンターにあった。

たった1人での合宿は2週間に及んだ。

 

「苦しいのはお前が一番苦しいんだから、やるしかない。

 この世界は結果しかないんだから、結果でみんな評価するんだから。

  結果が出なかったのは何かもろさがあるから、

   頑張らないかんな」

 

浜本コーチはそう伝えている。

 

 

迎えた山口国体。

世界陸上後初の公式戦。

失ったフォームと自信を取り戻せるか―

 

1投目、71メートル34。

厳しい数字だ。

 

さらに2投目はファウル...

全くフォームが噛み合わない。

 

しかし村上は試合を捨てなかった。

プライドをかなぐり捨て、必死にイメージを膨らませ

気合を入れ直した。

 

そして3投目。

放物線の軌道が変わった。

 

「79メートル08」

 

自己ベストには程遠い。

 

しかし忘れかけていた感覚を土壇場で取り戻し

 村上は「8度目の優勝」を決めた。

 

 

 s-yamaguti.jpg

 

 

表彰台の上で村上は

少し照れくさそうに、賞状を頭上に掲げた。

 

「3本目に、いい意味で開き直って自分の体に任せようと。

 今までやってきた自分の体の方が覚えているだろうということで、

  『本能的』にやったわけなんですが、

            ひとついい経験になりました」

 

試練の世界陸上から1ヶ月。

 

村上は、苦しみながらも

 

   再起への第一歩を踏み出した。

 

 

 

 

2011年10月13日(木)

RFL

 

 

尊厳と名誉の象徴

 

 

s-111008_1916~0001.jpg

 

2011年10月8日 松山

 

また勇気をいただきました

 

ありがとうございます

 

 

2011年10月13日(木)

快挙の12時間後―

「カップまで何ヤード?はい、歩測して!」

 

早朝の北条CCの練習グリーン。

知人のご子息にパターのアドバイスを送るのは

松山幹男さん。

 

かつては日本アマ、そして国体にも出場した

愛媛のトップアマだ。

 

「左足を引いて、膝は揃えて・・・」

 

ゴルフで大きな夢を見るその瞳に応えるように

丁寧にアドバイスを送っては

スイングを繰り返すそのジュニア世代の姿に、

幹男さんは、ある人物を重ねる。

 

それは、今から10年前の息子の姿―

 

「松山英樹」。

 

この1時間前、幹男さんはクラブハウスで静かに

「きのう」の快挙を振り返った。

 

「2日目を我慢できたことが一番大きかったです。

 それでもアンダーパーでしたからね」

 

9月29日。

シンガポールで行われた「アジアアマチュア選手権」。

 

去年、この試合で初出場初優勝を果たした松山英樹は

舞い込んだマスターズの切符を手にオーガスタに乗り込み、

ローアマに輝き、表彰式でシルバーカップを手にした。

 

「あの場所に絶対戻りたい」

 

ディフェンヂィングチャンピオンとして臨んだ今年、

松山は初日5アンダー2位タイと好スタートを切るも

2日目は1アンダーと足踏みする。

 

しかしここで我慢できたことが逆に功を奏し、

3日目、7アンダーと爆発。1打差で2位に浮上。

そして最終日、終盤、韓国のイ・スミンの猛追を受けたが

結局5アンダー、最後は1打差でねじ伏せ、

通算18アンダーで優勝。

ラスト2日を気合のノーボギーで2連覇を達成し

2年連続マスターズ出場権を獲得した。

 

 

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その12時間後―

 

「英樹もね、ここで色んなことして、朝から晩まで遊んどったよ」

 

北条CCのコース脇にある小さな練習グリーン。

その周りに生えている木々、くぼみ、草、斜面・・・

全てがマスターズへ繋がった。

 

「そうそう、いい感じで来てる」

 

また半年後、時差と戦う大変な4日間がやってくる。

2011年9月28日(水)

武道必修化前夜・・・

「礼」の正しいやり方を知っていますか。

 

立った状態での「礼」は...

まず、かかとをつけてつま先を45度開き、両手の平は体側に。

続いて両手をももの上に乗せ、

そのまま膝頭の上、握りこぶし1つ分の所まで自然に下げる。

それが上体を約30度曲げた形となる。

この間1秒。

そして2秒静止。

さらに1秒で元の姿勢に戻る。

合計4秒で礼を終える。

 

では座った姿勢での「礼」は...

その前に、立った姿勢から、

まず左足を引き、片膝を立て、続いて右足を引いて膝を立て、

立て爪からひら爪に切り換えて

つま先親指を重ね、最後にでん部を静かに乗せる。

両膝は握りこぶし2つ分。女性はその限りでない。

そして両手をももの付け根の位置に置く。

 

ここからまず、両膝の前方に

左手、右手の順に、両手をおにぎりの形を作るように置き、

頭を肩と同じ高さに、または床から30センチの高さになるまで下げる。

 

(・・・と記憶をたよりに書いたので不備ある場合はすいません)

 

そんな話から始まったのが

先日、県が愛媛県武道館で開いた

「武道、ダンス指導研修会」の中の柔道の実技講習でした。

 

講師は、濱田初幸さん。

そう、愛光の生徒達を鍛え、松山大学柔道部を鍛え

現在は鹿児島の鹿屋体育大学で国内トップレベルの学生を指導...

というよりも全国的には、ヤワラちゃんら全日本の軽量級のコーチで

そして自身も1979年キューバ国際で優勝するなど国際大会でも

数多くの入賞を果たした柔道家だ。

 

濱田さん講義1.JPG 

 

この日は県内の保健体育教員を対象にした講習会。

そう、来年度から始まる「中学校武道必修化」を前にした

指導者講習会である。

来年春から中学生たちを指導する先生たち40人が参加していた。

 

濱田さんの話は、柔道の歴史を紐解く所から始まった。

日本がオリンピックに初参加した1912年第5回ストックホルム大会で

団長を務めていたのが、あの嘉納治五郎氏だったとか、

国際柔道連盟に加盟している国や地域の数は200で、

これは国連加盟の193より多いこととか・・・。

 

最も興味を引いたのがフランスの話。

フランスの柔道人口は現在60万人で日本よりも多いのだが、

日本の方が実力的に上なのは、指導者の力の差だと濱田さんは言う。

 

ただ柔道を取り巻く環境は大きく違い、

最も驚いたのは、フランスの柔道指導者は全員プロだということ。

ビジネスとして成立していて、柔道の指導者として

生計を立てていけるそうだ。

つまり国家資格を持つ人だけが指導者になれ、

免許を持たないで指導すると「逮捕」される。

1955年から実施されている国を挙げての制度らしい。

だから指導者たちはものすごく勉強熱心という。

 

こうした制度のもとでの指導ゆえに

フランスでは柔道の練習、試合中などの「死亡事故」は

皆無といわれているのも納得できる気がする。

 

国際性に優れ、日本が発祥の「柔道」。

「礼」に始まり、「礼」に終わる。

 

そんな競技を日本の誇りとして温め続けていくためにも

大きなチャンスとなる来年春の「中学校武道必修化」。

 

授業現場の安全対策は大丈夫か―。

 

目の前で、寝技の稽古に励む先生たちに全てはかかっている。

 

濱田さん講義2.JPG

 

 

2011年9月14日(水)

北よりの風もそろそろ・・・

今、南半球のニュージーランドでは

ラグビーワールドカップが行われていますね。

4年に1度、ラグビー界最大のイベントであり、

ファンにとってはお祭りであり本当にワクワクする1ヶ月間です。

 

日本は初戦、フランスに敗れはしましたが

21-47、大善戦だったのではと思います。

 

なにしろアジア王者として7大会連続の日本とはいえ、

過去、勝ったのは第2回大会、宿沢ジャパンのジンバブエ戦のみ。

忘れたくても忘れられない第3回大会17―145、

悲劇のニュージーランド戦もありましたし・・・

 

さらに新田高校出身としては2人目の代表監督、

闘将、向井昭吾さんでさえ、第5回大会で4戦全敗でした。

 

さて今回、外国人選手の多さが指摘されることも少なくない

カーワンジャパン。

ユニオン重視のラグビー界、3年間その協会でプレーすれば

その国の代表選手として出場できるルールに基づくもの。

 

とはいえ「日本代表」と銘打つだけに気にはなりますが

ここは「桜のジャージ」に魂込めている選手たちの勇姿を

純粋に応援したいと思います。

 

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(高校ラグビー中予大会 北条×松山工)

 

 

そんな折、先日、愛媛ラグビー界の聖地、県総合運動公園球技場で、

高校ラグビーの中予地区大会が行われました。

 

シーズン到来とはいえ、北風とは無縁の残暑厳しいグラウンドで

高校ラガーマンたちは必死になって楕円のボールを追っていました。

 

そんな中、注目した一戦は「北条」 対 「松山工業」。

北条は新人大会、春の四国大会県予選で優勝。

松山工業は県高校総体で北条を破って優勝。

花園予選まで2ヶ月足らず、夏場の猛特訓の成果が試される一戦とあって

スタンドも保護者や学校関係者でかなり埋まっていました。

 

試合は20分ハーフ。

伝統のドライビングモールを武器に総合力の北条。

重量FWと展開ラグビーのバランスがいい松山工業。

 

前半8分、北条はフルバックのカウンターからフランカーが左隅にトライ。

5-0と先制します。

 

しかし後半開始早々、松山工業は敵陣22メートル付近で

出足のいいチャージからインゴールでボールを抑えて同点のトライ。

5―5と試合を振り出しに戻します。

 

その後、北条も積極的な展開ラグビーを。

松工も密集戦で互角の勝負。

試合は同点のまま終わるかと思われました。

 

しかし後半ロスタイム、

北条は相手インゴールにプレッシャーをかけ

相手のノックオンを誘うと、そのまま抑えてトライ。

ゴールも決まって12対5、軍配は北条に上がりました。

 

見ごたえのある攻防が展開された40分。

しかし来る「花園予選」は30分ハーフの60分での勝負。

前半の残り10分、後半のラスト10分に何が待っているかは未知の世界。

互角の戦いを演じた両チームから益々目が離せません。

2011年9月12日(月)

中学校の教員の嘆き・・・

先日、キャッチあい「追跡アイ」のコーナーで

来年度から始まる「中学校武道必修化」について取り上げた。

 

放送の中では、「授業の安全確保」のための

保健体育教員の指導力や武道が専門でない教員の育成状況、

各競技団体の見方などを紹介させていただいた。

 

その企画の取材中のこと。

県内南予地域の中学校の教員から聞かされたのは

「武道の必修化による、専門外の教員の苦労もあるが、

 既に、普通の部活担当者も大変なんです」という言葉。

 

どういうことか―

 

「自身の専門競技の部を担当している教員は

 楽しいだろうし、結果も出るし、評価もされる。

 しかし、専門外の部を担当した教員は大変よ。

 辛いし、結果も出ないし、休みは無いし・・・」

 

保健体育教員であれば多少専門外でも対応はできる。

しかし県内の公立中学校138校中46校では体育教員は「1人」。

多くの中学校で、スポーツとは縁のなかった教員も

スポーツ部の顧問になることは少なくない。

 

そうなると、的確な指導はなかなか難しいだろうし

ひどい場合には生徒に練習メニューだけ伝えて

グラウンドに現れなかったりすることもあるという。

 

私も中学時代の野球部を振り返れば、

確かに部長先生は野球経験ゼロの方だった。

練習が急に楽になってホッとしたものだったが

それでいいはずは全くない。

 

一番の被害者はやはり生徒である。

伸びざかりの時期に正しい指導を受けられないのは悲劇だ。

まともな指導をうけられず、部としても体をなさなければ・・・生徒は辞める。

すると地域のスポーツクラブや少年団に入ることになるが、

活動場所が遠くなってしまえば、練習は週末だけになってしまう・・・

 

学校体育と少年団との連携、そして外部指導者と教員の連携・・・

 

やはりどうすべきか―

 

中学校武道必修化を取材していたら

またこの問題に頭をめぐらせていた。

 

s-空.jpg

(県武道館の空)

 

2011年7月15日(金)

「2塁3塁」 と 「1塁3塁」

「あれは個人の判断ですね」

 

試合後、松山商業の重澤和史監督は

そう静かに振り返った。

 

s-松商初戦突破2011.jpg

(校歌 松商ナインと応援団)

 

今治球場の1回戦、第1試合。

1回戦屈指のカードと目された

今治北 対 松山商業。

 

中盤までの主役は今治北のエース武田。

右スリークオーターから繰り出す球威あるストレートと

ブレーキの効いたスライダーで

7回まで松商打線に与えたヒットはわずか「1」。

 

一方の今治北はそのピッチャー武田の

タイムリー2ベースなどで2対0とリードしていた。

 

結局、ラスト2イニングスで松商が3点取って

勝利するのだが、

冒頭のコメントは、8回表の攻撃について。

 

先頭、1番左の西森がレフト前ヒット。

そして2番左の平岡。

うまく流してレフト前へ連続ヒット。

俊足の西森は一気に3塁へ。

 

これでノーアウト1塁3塁でクリーンアップへ...と思われた瞬間、

バッターランナーの平岡は送球間を突いて2塁を陥れた。

 

結果は「ナイスラン!」

ただ、気持ちが先行した走塁だったようにも見えた・・・

 

2点ビハインドの状況で

「ノーアウト1塁3塁」と「ノーアウト2塁3塁」では全く意味が違う。

 

「2塁3塁」ならば、1ヒットで一気に同点。

犠牲フライでも1点入って1アウト2塁。

次ぎのヒットで同点もありうる。

 

しかし「1塁3塁」では

犠牲フライで1点入っても1アウト1塁。

同点へもう2作業が必要になるだろう。

 

ただ、3番高木は

前の打席でレフトへヒットを放っている。

しかも終盤8回・・・。

 

 

結局、松山商業はノーアウト2塁3塁から

3番高木がライトへ犠牲フライで1点返し1アウト3塁。

 

そして押せ押せムードの中、

4番堀田がライトオーバーの

タイムリー2ベースヒットを放ち同点。

最終回に1点勝ち越し3対2。

最後は逃げ切って初戦を突破した。

 

 

「セオリー」と「不確定要素」

その狭間での格闘が高校野球最大の魅力であることは間違いない。

 

 

それを踏まえた上で、

 

「あれは、止まれだと思いますね」

 

重澤監督は振り返る。

苦笑いしながら―

 

球史に残る15年前の「奇跡のバックホーム」。

3塁ランナーのタッチアップに対し、

「ノーバウンド」のバックホームを誰が予想したことか。

 

ドラマは想定外から生まれるからドラマだ。

 

 

ただ、「監督とはなにか」

そして「高校野球とはなにか」

 

選手と監督の関係も例外なく時代を反映する。

 

ストレートに言えば「監督の指導」と「選手の意見」が

現代高校野球を形作っているのが現実。

昔の野球に「後者」は無い。

 

「行けっ」

 

「止まれ」

 

 

その一瞬に今の時代を垣間見ると同時に、

過ぎ去った時も意外に多いことに気づかされる。

 

 

 

 

 

 

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