高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2012年01月15日(日)

しまなみ海道

遅ればせながら先日、今治から尾道まで

自転車で渡ってきました。

クロスバイク初心者の私にとっては結構ハードでした!

でも、天気にも恵まれ、ダイナミックな景色に

なんとか最後までこぎ切ることができました。

 

 s-サンライズ糸山.jpg

午前9時、今治の自転車ターミナル

「サンライズ糸山」をスタート。

 

s-しまなみ出発前.jpg

 

こちらは「来島第三大橋」を下から。

来島第3大橋下.png

 

なぜか写真の大きさが変わりましたが

お気になさらず。

大島をこぎきると次ぎの橋が。

こちらは「伯方・大島大橋」

伯方・大島大橋.png

 

さらに伯方島を抜けると

次ぎは美しい「大三島橋」

大三島橋.png

 

そして「多々羅大橋」。

道の駅に着くと、11時半。

ランチタイムにしました。

s-多々羅 携帯.jpg   

 

そして「多々羅大橋」を渡ると

広島県~。

多々羅大橋の上.png

 

広島に入ると車道脇には

しまなみ海道を示す

スカイブルーの線が登場。

これで道を迷うことなく進めます。

 

生口島内道路.png

 

生口島にある「耕三寺」の門。

ここは別名「西の日光」。

でも東南アジアの空気が 漂っています。

生口島 耕三寺1.png

 

そして「生口橋」を渡って・・・

生口橋.png

 

次ぎの「因島大橋」には驚きました。

なぜなら・・・

因島大橋.png

 

橋の下に歩道と自転車道が

ありました。

しかも長い・・・

因島大橋の下.png

 

そして向島を抜けて

最後は船で尾道へ渡ります。

渡船場から小さな渡し船で5分程度でした。

尾道への渡船場.png

 

そして、午後3時、「尾道」に到着しました。

s-尾道 到着.jpg

ニュースでも雑誌でも

 本当に見慣れた橋の風景に海道の様子・・・

 

でも、潮の香り、島の香り、風の音、

 そして冬の日差しの暖かさ・・・

  初めて感じたものばかりの80キロでした。

 

 尾道到着.png

 「急ぐことなんてないさ~

  ゆっくり、ゆっくり行けばいいんだよ」

     (「道の旅人になる」から抜粋)

 

 

 

 

 

 

 

2012年01月07日(土)

道の旅人になる

「旅」がしたいあなたへ

 

  「旅」の途中のあなたへ

 

    「旅」を終えたあなたへ

 

 

見れば、また一歩前に踏み出したくなる

 人と道と絆の物語―

 

 

2012年初春、

 スペインから四国愛媛に届いた

  巡礼ロードストーリー。

 

人はなぜ「旅」をするのか。

 どう歩き、どこへ向かうべきなのか。

  そして「旅」の終わりに待っているのは、何か―

 

その答えが、今ここにある。

 

************************

「道の旅人になる」 ~聖地巡礼200キロの旅~

 

1月9日(月・祝)午後1時55~放送。

************************

 

 

新年のひととき、

 

  大切なあの人と一緒に

  

     どうぞごゆっくりご鑑賞ください。

 

s-道.jpg

 

 

 

 

 

2011年12月27日(火)

「1トライ差」

全国高校ラグビー大会1回戦。

 

1トライを奪えなかった北条。

1トライを奪った関商工。

 

60分間戦ってその差はわずかに5点。

実に惜しいが北条は初戦敗退に終わった。

 

後半にはトライまで1メートルに迫った時間もあり

あの時、あの瞬間・・・と

いくらでも勝敗の分かれ目と思える場面が

選手たちの脳裏にはよぎっていることだろう。

 

ただ終盤、感情のままにプレーしたくなるのを抑えこみ、

冷静さを保ちながら、徹底して味方を生かすための捨石になろうと

体を張り続けたプレーは

臙脂色に染まったスタンドを揺さぶり続けた。

 

 

そして試合後、肩を落としながら、

応援団を最後まで見送り続けた北条フィフティーン。

その姿に、「後輩たち」の心が動かないはずはない。

 

 

 

全国高校ラグビー大会1回戦

 

北条0-5関商工(岐阜)

 

 

2011年12月21日(水)

「もっている人」

後半ロスタイム。

やや滞空時間の長い右回転のボールが

ゆるやかな放物線を描いた。

 

「現役最後のプレー」

 

それが、ファンの記憶に残る選手はそう多くはいない。

しかしこの日、「愛媛の背番号14」は

「赤」と「オレンジ」に染まった冬の夕刻の熊谷スタジアムで

両チームのサポーターの記憶にしっかりと刻みこまれた。

 

「泣くとか...そういうことは思わなかったが、

あらためてみなさんの温かい気持ちを感じることができて

感動しました」

 

それは試合後のこと。

スタジアムが一体となって1つの名前を連呼した。

 

「三上!」「三上!」「三上!」・・・

 

スタジアムを包み込む大コールの中、

背番号14は、チームメイトの手で何度も宙に舞った。

 

「三上卓哉」。

今季限りで現役を引退する。

 

 

  

 

Jリーガーとしてのキャリアをスタートさせたのは2002年。

地元の「浦和レッズ」だった。

3シーズンでわずか5試合。

その後、京都で才能が開花し

2008年、「愛媛FC」にやってきた。

 

そして「正確な左足のクロス」を武器に

不動の左サイドバックとして信頼を勝ち得ると

翌年には無口なキャプテンとして

背中でチームを引っ張った。

 

悔やまれるはおととしからの「腰痛」。

 

しかしピッチの外で黙々と

来るべき日を信じてトレーニングに励む姿は

サポーターならずとも多くの人の心を動かした。

 

 

 

 

そして今年の天皇杯。

全国に星の数ほどあるサッカーチームの中・・・

本大会4回戦で顔を合わせた「愛媛」と「浦和」。

 

その後半ロスタイム、

バルバリッチ監督はピッチに「三上」を送った。

 

ボールはいきなり足元にやってくる。

ゴール前を一瞥する三上。

最後は「左足」でボールを高く、高く蹴り上げた―

 

 

やや滞空時間の長い右回転のボールが描くゆるやかな放物線。

すっかり日が落ち、冷気を含んだ冬の夜の入り口から

再びまぶしいほどの芝の上に目をやれば

1人の男が確実に呼吸を合わせまっすぐこちらを見ている。

ボールはその瞬間、行き先を「福田健二」に託すことに決めた。

 

 

ゴールを決めた福田は、三上の肩を抱き、

そしてスタンドに向かって

指先でアシストを決めた背番号14を何度も指した。

 

 

「何か持っている人」

 

サッカーと出会った故郷埼玉のピッチで

愛された愛媛のユニフォームを着て

最後に最も得意な「左足」でアシストを決め

我が成長ぶりを全身で示し、三上はユニフォームを脱いだ。

 

 

 

それにしても・・・

このラスト5分の一連の出来事。

脳裏をよぎるのは「奇跡のバックホーム」。

 

延長に入って監督に突然指名され

ライトの守備位置につくやいなや、

その次ぎの打球が自らの頭上に飛んでくる―。

 

「もっている人」。

 

そう多くはないが、やはりたまに現れる。

 

そして彼らに共通していること、それはいつも

 

「一発で決める」

 

 

 

2011年12月06日(火)

「逆転」の新田から9年

 2002年11月、花園をかけた一戦で、

下馬評を覆して高校愛媛チャンピオンに輝いたのは

「新田高校ラグビー部」。

 

当時、キャプテンだったのが「岡田正平」選手。

現在、「コカコーラウエストレッドスパークス」のナンバー8だ。

 

 

s-トップリーグ.jpg

(神戸製鋼vsコカ・コーラ  @ニンスタ)

 

 

「覚えてくれてたんですか!」

 

 

今月4日、ニンジニアスタジアムで行われたトップリーグ公式戦、

「コカ・コーラvs神戸製鋼」の試合にフル出場。

試合後のインタビューで、大男が懐かしい笑顔を見せた。

 

当時、岡田キャプテン率いる新田は花園予選の決勝、

現在リコーの「重見」、高校日本代表候補の「渡部」ら

タレント揃いの松山商業相手に、「逆転勝ち」で花園切符を手にした。

 

あれから9年―

 

今や押しも押されもせぬ強豪、帝京大学から

新田の大先輩、向井昭吾監督率いるコカコーラに入り

トップリーガー5年目。

 

ナンバー8としても期待は大きく、

この日、敗れはしたものの80分間フル出場で

かつての恩師や同級生らの喉を枯らした。

 

「僕のラグビーの基本は高校時代に培われました。

 ぜひ、今ラグビーをしている子供たちには

 基本を大切に頑張って欲しいし、

 僕もその見本となれるよう頑張っていきたいです」

 

現在、最下位に甘んじるコカ・コーラウエスト。

この日も31対12と神戸に敗れ初勝利はお預けとなった。

 

しかし闘将・向井昭吾監督の描くラグビーに

選手たちの信頼は厚く、

神戸をトライ1本に封じた後半は、

逆襲へのきっかけとなったように感じる。

9年前のあの日のように・・・。

 

 

「まだ5試合でなく、もう5試合。

 今試合に使ってもらっているこのチャンスを生かすためにも

 残り8試合、死ぬ気でやるつもりです!」

 

s-岡田正平.jpg

 

(インタビュー中の岡田選手)

 

 

 

2011年12月03日(土)

元木さん発、「国立」経由、向井さん行き

その日、「日本のラグビー」は、私の目の前でこう語った。

 

「タックルする直前に脳裏をよぎる不安。

  それは痛みへの恐怖ではありません。

   自分の力を100%出しきれるかどうかが不安なんです」

 

あの日、「6万の国立」の地響きのような唸り声の中

誰よりも低く相手に突き刺さっていった紫紺の「12番」。

 

「元木由記雄」

 

日本ラグビー史上、最も敵にしたくない選手の1人である。

 

「気持ちが充実していれば、何本タックルに行っても全く平気なんです。

 問題は、そこまで気持ちをもっていけるかどうか。

 試合によってはそこまでの試合じゃない場合もある。

 大学選手権、日本選手権の国立ならば

 もう自然に気持ちも入っているんです。

 ただ、そこまででない試合もある。その時、どうするか。

 問題は全て自分自身にあるんです」

 

大阪工大高。いわゆる「ダイコウダイ」の1年の時には

すでにその名は業界中に知れ渡り、

高2、高3では当然のように「高校ジャパン」。

 

そして「メイジ」の1年からレギュラーに定着すると、

その後、大学日本一に「3度」輝いた。

 

「ラグビーの魅力。それは、ボールに思いがあること。

 ラグビーは、ただボールを横の人に回すだけではないんです。

 ひとりひとりの思いが、ボールに重なって回していくという

 競技なんです」

 

核心へ、言葉はパスを繋いでいく。

 

「痛い思いをしたヤツのお陰でこのボールが手元にある。

 だからミスは出来ないし、だからそいつのために

 『走るぞっ』と心が決まるんです」

 

そして、仲間の思いが結実する瞬間が訪れる。

 

ラグビーから学んだこと―

 

「仲間を裏切らない。

 仲間を裏切らないというのは、体を張り続けること。

 自分の力を常に出し続けること。

 そうしないと仲間からも認められないですから」

 

そんな「心」は、さらに神戸製鋼で花開き、

「骨軋むタックル」はさらに研ぎ澄まされ、

積み重ねた代表キャップ「79」は歴代1位。

国内唯一となるワールドカップ4大会連続出場。

その鈍く光る刃は、17年間に渡って味方を鼓舞し、

相手を恐怖に陥れた。

 

「好きなんでしょうね、タックルが」

 

その「モトキ」が、一目置く存在がいた。

2003年ラグビーワールドカップ。

桜のジャージの12番は、試合後、

血にまみれた1人の男の存在に目を奪われた。

 

「ワールドカップの時なんですが、机を叩いたらしくて。

 試合終わったら流血しているんですよ。

 僕らでさえ、そこまでいかないのに。

 足もケガしてたかな、もうホントにアツイ方で。

 でも、この人のために頑張ろうかという気にさせる方ですよ」

 

「向井昭吾」監督。

 

人呼んで「闘将向井」。

新田高校ラグビー部出身では2人目のジャパン監督だ。

2001年から代表監督を務め、

その「向井ジャパン」の主要メンバーだったのが元木だ。

 

「言っている事とやっている事が一致している人。

 表裏の全く無い人です」

 

その向井監督率いる「コカ・コーラウエスト」と

元木さんがアドバイザーを務める「神戸製鋼」が

あさって、ニンスタで公式戦を戦う。

 

真に、ラグビー界は繋がっていて愉快だ。

 

*******************************

 

 

その向井監督が選手時代の日本選手権決勝。

1988年1月15日、

社会人王者の東芝府中は早稲田に敗れた。

 

「アカクロ」が「ブルージャージ」を破った―

 

6万人で膨れ上がった国立に早稲田の「荒ぶる」がこだまするのを

東芝府中のFB向井昭吾は悔しい記憶として胸に刻むのだが、

その早稲田を日本一に導いた男。

 

それが「鬼のキモケン」。

 

向井監督の大先輩、「新田高校ラグビー部出身」の「木本建治」監督だ。

 

大学生が社会人を破る快挙は

日本ラグビー史上、この日が最後となり

トップリーグが出来た今、今後も成しえないであろう

「記録」として刻まれている。

 

このシーズンの早稲田はもう1つ、

「記憶」に残る名勝負を繰り広げた。

 

1987年12月6日 「雪の早明戦」

 

前夜、雨は夜更け過ぎに雪へと変わった―

 

「勝ったぞ!これは神風や!」

 

早稲田・木本監督が、

永田キャプテンの電話に叫んだその言葉は歴史に刻まれた。

 

さらに―

 

その木本建治監督が早稲田の選手時代に遡れば

自身もやはり「早明戦」の歴史に名を連ねている。

 

ただ木本のそれは試練の足跡・・・

 

早稲田の歴史で唯一、2部で戦ったのが

1962年、「木本キャプテン」の時代だった。

 

この年、2部で全勝し、

1年での1部復帰を果たした「木本組」は、

勢いそのままに12月2日の秩父宮、「早明戦」に臨み、

17対8で明治を破った。

 

そしてここでも繋がる。

 

この試合の「明治のナンバー8」。

それは、新田ラグビー部時代のチームメイト

「烏谷忠男」だった。

 

その同級生対決の4年後にも、

早稲田では2人の愛媛人が躍動する。

 

7番フランカーは、松山東高校出身の「和泉武雄」。

9番スクラムハーフは新田出身の「山本 巌」

 

ともに2年生ながら「アカクロ」を身に纏い

1966年12月4日、秩父宮で明治を破っている。

 

その「山本巌」は後にサントリーを経て、

1980年、82年には日本代表監督を務めている。

それは新田ラグビー部出身としては初の代表監督就任であった。

 

一方の「和泉武雄」は、後に「東海大学ラグビー部」の監督に就任。

「防御のタックルこそ攻撃の始まり」という

 「アタックル」の理論を進化させ

  「アタックル」の上を行く一撃必殺「アタッキル」の精神を

     選手に植え付けたと聞く。

 

そしてその指導を全身に浴びたのが「闘将・向井昭吾」であり、

後に先輩、「山本 巌」に次ぐ「日本代表監督」が誕生するのである。

 

 

ふう、これでめでたく振り出しに...

 

嗚呼、なんとラグビー界は繋がっていることよ!

 

 

最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。

 

 

 

 

2011年10月28日(金)

初の100キロ越えは「とびしま海道」

日はとうに暮れたが、心は晴れていた。

 

広島県の呉港に着いたのは午後7時すぎ。

ペダルをこぎ続け、計6時間。

気がつけば、100キロ走っていた。

 

両足はパンパン。

運動不足なんだから当然だ。

 

でもこの達成感―

 

s-メーター.jpg 

(チャリのメーター)

 

 

 

 

 

午前10時に松山を出発し、

北風に心が折れそうになりながらも

196号を北上しながら午後0時半に今治港に到着。

 

 

s-今治港.jpg 

(今治港から 遠くに来島大橋が見える)

 

 

道中の写真は無い。

撮るまでもないほど車では何度も通った道だ。

 

しかしこんなに遠かったのか。

でも約40キロ。すでに自己ベスト更新でニヤリ。

 

ここから大三島ブルーラインで来島大橋をくぐる。

 

s-フェリー.jpg

(高速船で来島大橋の向こうへ)

 

 

そして午後2時前、

大三島の隣、広島県の「大崎上島」の木江(きのえ)港へ。

 

ここから「安芸灘とびしま海道」の旅が始まった。

 

 

裏しまなみ海道とも言われるこのルート。

しまなみほど、道路状況などは整備されていないが

素朴でゆったりした「島時間」こそが最大の魅力。

全国のサイクリストからも、今注目されているらしい。

 

 

s-地図.jpg 

(自転車雑誌の特集ページ 赤い線がとびしま海道)

 

 

 

大崎上島の木江港からは、まず明石港へ移動。

ここでフェリーに乗るのだが、時間が合わずいきなり1時間待ち。

それでも明石の港町は静かで、かなり静かで、とても静かだったので

私の心も次第に浄化されていくのを実感。

 

フェリーで約15分。

隣りの「大崎下島」に着いたのが、午後3時40分。

ここから秋の西日との競争となってしまった。

 

道中写真は無い。余裕も無い。

 

しかしこの「とびしま海道」には魅せられる。

ぜひ何かのHPで写真のチェックを。(スイマセン!)

 

 

そして「大崎下島」から「豊浜大橋」を渡って「豊島」へ。

さらに「豊島大橋」を渡って、次ぎの「上蒲刈島」へ。

 

そして「蒲刈大橋」を渡って「下蒲刈島」へ。

西日との競争にはあえなく敗れ、この時点で日没。

しかしなんとか「安芸灘大橋」を渡って本州へ。

 

そしてここから道路事情は一変、

呉市外を目指す国道185号は夕方のラッシュ。

黙々と白線の内側でアップダウンを繰り返し、

長~い自転車専用のトンネルを抜けて

呉の中心街をやり過ごし午後7時、呉港に到着。

 

最終便に間に合った。

 

s-呉港.jpg

(呉港の桟橋 向こうは造船所)

 

ここから石崎汽船のフェリーで約2時間。

 

のんびり揺られて松山へ。

 乗船してからの記憶はあまりない。

 

 

それでも100キロ!

 

道はやはり繋がっていた。

 

 

 

2011年10月17日(月)

背番号なき現役

その体育館には笑顔が溢れていた。

 

愛媛マンダリンパイレーツの「ファン感謝デー」。

毎年リーグ戦終了後に開かれる

ファンと選手、スタッフとの年に1度の触れ合いの場だ。

今年もゲームやクイズ、抽選会など大いに盛り上がった。

 

s-体育館.jpg

 

決して多いとはいえないものの、

ほぼ全ての試合に足を運ぶコアなファンを持つパイレーツにとって、

それは毎年、交流の場というよりも、

選手とファンが互いの労をねぎらうまさに「打ち上げ」の雰囲気となる。

 

ところがその「打ち上げ」には

現実に引き戻される瞬間が用意されている。

「退団選手」の発表と挨拶だ。

 

13人。

 

今年のメンバー24人の半分以上がチームを去る。

多くは現役引退を決意し

「第2の人生」に踏み出すことになる。

 

したがってこの日の笑顔は

野球選手のそれというよりも

年相応の「若者」たちの「精神的たくましさ」から来る

エネルギーなのかもしれない。

 

s-あいさつ.jpg 

(今季最終戦 坊っちゃんスタジアム)

 

 

 

「野球で夢を見続けたい」

 

様々な思いや過去を背に愛媛にやってきた若者たち。

野球漬けの毎日は想像どおりの世界だったろうか。

納得のいく毎日だったろうか。

 

野球人には、2種類の人間しかいない。

プロ野球選手になった者と

プロ野球選手になれなかった者。

 

しかし本当の「現役」と「引退」の線引きは

野球を愛し続ける人間と

野球を嫌いになった人間との間にのみ引かれているのかも。

 

この日、一線を退く決意を固めるために

野球から目をそらす方法を取った選手もいるかもしれない。

全てを注いできた「肉体的全力野球」。

それを手放す不安は想像に難くない。

 

s-あいさつ2.jpg 

(今季最終戦 最後の挨拶)

 

 

ただ、どうだろう。

野球の奥深さを知るのは、これからだったりして...。

大丈夫!

そう簡単に「現役」を退けられると思ったら大間違い!

 

パイレーツを巣立った多くのOBの

頭の中をどうぞ覗きに行ってみるといい。

160キロの快速球を投げ、

シーズン40ホーマーを放ち

アベレージ4割越えを果たすための理論が渦巻いているはず。

それは全て、生きるエネルギーに繋がっているように思う。

 

「背番号なき現役」

新たな野球人生の始まり―。

 

 

みなさん本当にお疲れ様でした。

またお会いしたいですね。

グラウンドで!スタジアムで!

 

 

PS:比嘉将太選手の「シーサー踊り」は一生忘れません。

2011年10月14日(金)

再起へ、「本能」の一投

今月10日、山口国体。

維新百年記念陸上競技場。

 

s-山口国体会場.jpg

 

現れたのは村上幸史。

国体の成年男子やり投げで優勝7回。

 

 

この日も、いつも通りの準備をして、

いつもと同じ色のメダルを手にすることは、

村上にとって決して難しい作業には見えなかった。

 

ところがこの時村上は

かつて経験したことのない心の揺れに苦しんでいた。

 

「新鮮な気持ちの中で試合を迎えられた反面と、

 不安を持って試合を迎えた反面と、

  そういった色々な思いが入り混じって・・・」

 

 

先月の世界陸上テグ大会。

 

村上は前回大会の「銅メダリスト」。

さらに日本選手団の「キャプテン」。

そして何よりも、

来年のロンドンオリンピックの表彰台に向け

目標は「85メートル」。

 

しかし「80メートル19」で15位。

まさかの予選落ちで戦いは終わった。

 

 

村上に、一体何が起きたのか―。

 

 

あの日、競技場で村上をサポートしていたのは

高校時代からの恩師、浜元一馬コーチ。

1投目の感覚のズレが明暗を分けたと分析する。

 

「たぶん本人の感触の中には82、3mの感触はあったと思う。

 それで80メートルというので、

 ちょっと自分の中であせりが出たのではないかと思う」

 

1投目のあと、浜元コーチは村上に声をかけている。

 

「少し肩の開きが早い」

 

肩が開くと、下半身のエネルギーが外に逃げ、

腕の振り幅も小さくなり、やりに力が伝わらなくなる。

 

「最後左足をつける時の左足の開きが早かったので、

 それを微調整するための方法としては、

  助走のスピードを上げるか、

   逆に下げるか、どちらかなんですよね」

 

そこで村上は1投目のあと、

助走の開始位置を「4レーン上」から「5レーン上」に変更。

スピードをあげ、肩の開きを抑えるためだ。

 

ところが―

 

予選3投目までにフォームの微調整は効かなかった。

 

 

「甘かったです」

 

 

この言葉を残し、村上は競技場を後にした。

 

失った感覚。

期待に応えられなかった悔しさ。

 

帰国後、村上の姿は

東京のナショナルトレーニングセンターにあった。

たった1人での合宿は2週間に及んだ。

 

「苦しいのはお前が一番苦しいんだから、やるしかない。

 この世界は結果しかないんだから、結果でみんな評価するんだから。

  結果が出なかったのは何かもろさがあるから、

   頑張らないかんな」

 

浜本コーチはそう伝えている。

 

 

迎えた山口国体。

世界陸上後初の公式戦。

失ったフォームと自信を取り戻せるか―

 

1投目、71メートル34。

厳しい数字だ。

 

さらに2投目はファウル...

全くフォームが噛み合わない。

 

しかし村上は試合を捨てなかった。

プライドをかなぐり捨て、必死にイメージを膨らませ

気合を入れ直した。

 

そして3投目。

放物線の軌道が変わった。

 

「79メートル08」

 

自己ベストには程遠い。

 

しかし忘れかけていた感覚を土壇場で取り戻し

 村上は「8度目の優勝」を決めた。

 

 

 s-yamaguti.jpg

 

 

表彰台の上で村上は

少し照れくさそうに、賞状を頭上に掲げた。

 

「3本目に、いい意味で開き直って自分の体に任せようと。

 今までやってきた自分の体の方が覚えているだろうということで、

  『本能的』にやったわけなんですが、

            ひとついい経験になりました」

 

試練の世界陸上から1ヶ月。

 

村上は、苦しみながらも

 

   再起への第一歩を踏み出した。

 

 

 

 

2011年10月13日(木)

RFL

 

 

尊厳と名誉の象徴

 

 

s-111008_1916~0001.jpg

 

2011年10月8日 松山

 

また勇気をいただきました

 

ありがとうございます

 

 

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