ドジャーファミリーの絆 ラソーダ監督を偲び
ノモは「家族」になったんだな~。
あの日、西海岸の陽気な人たちとポップコーンを頬張りながら
そう感じていました。
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95年、海を渡った野茂英雄投手が
カリフォルニアの海のようなブルーを身にまとい
バッタバッタと奪三振ショーを繰り広げる様を
きのうのように覚えている野球ファンは少なくないでしょう。
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実はメジャーリーグは、この前の年、
「サラリーキャップ制度導入」を提案する経営者側と
受け入れたくない選手会側との対立が激化し、
94年夏から「ストライキ」に入っていました。
結局ストライキは、プロスポーツ史上最長となる「232日間」に達し
深刻なファン離れを招きました。
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結局、95年シーズンも、予定より1か月遅い4月25日に開幕しましたが
各地のスタジアムでは、94年シーズンの打ち切りと
ワールドシリーズ中止に対するファンのブーイングは続き、
殺伐とした空気に包まれていました。
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そんなタイミングだったんですよね。
海の向こうからやってきた「とても無口な」ひとりの日本人が
「トルネード旋風」を巻き起こすのは!
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ボールパークの小高い丘の上で、
まるで眠りからさめたように、男は大きく伸びをすると、
今度は上体をひょいっと必要以上にひねり背中の「16番」をアピール。
すると今度は巻きあげたネジを一気に解放しながら、
腕をまっすぐ振り下ろす!
そして問題はここからで、並み居るメジャーの強打者たちは
この後、1秒にも満たない回答時間で、究極の「2択」を迫られたのです。
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「ストレート」か「フォーク」か―
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メジャー1年目、野茂投手は「最多奪三振」をもぎとり、
アジア人初の「新人王」に輝きました。
13勝6敗 奪三振は実に「236個」!圧巻であり、痛快でした。
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その後12シーズンに渡り、7球団で投げ続け、
通算123勝、奪三振数1918個。
「最多奪三振」を2回獲得し、ノーヒットノーランも2回達成しました。
ただその数々の偉業も、きっと「この人」がいたから。
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「トミー・ラソーダ監督」
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成功など全く約束されていない異国の地に1人乗りこみ、
「たった2つ」の球種だけで並み居るメジャーの強打者たちに
真っ向勝負を挑む野茂投手を「我が子」のように愛し
全身で受け止めているようでしたね。
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「野球をしにきているのであって、英語を話しに来ているのではない」と
頑なに日本語愛を貫く野茂投手が、記者会見で困っている時も
ラソーダ監督はいつも笑顔で会見場を和ませるなど、
「息子」がベースボールに集中し堪能する環境作りに
いつも気を配っているようで、
それは本当に「家族」のようでした。
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そんな「ドジャーブルーの血が流れている」という
ラソーダ監督率いるドジャース戦を見に行ったのは95年9月。
野茂投手の1年目で、私は3日間連続で「ドジャースタジアム」に通いました。
もちろん野茂投手の登板を目に焼き付けました!
実は私が転職するタイミングと重なっていたこともあり、
それはそれは勇気をもらいました。
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そしてボールパークの雰囲気の素晴らしさや、ベースボールを、
そしてドジャースをこよなく愛するファンのムードに「やられた」私は、
ロスの観光などしている場合ではなくスタジアムを心から堪能しました。
まるで昨日のことのようです!
(95年9月 ドジャースタジアム)
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今月7日、ラソーダ監督が亡くなりました。
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野茂英雄投手の挑戦を愛し、
「日本人の文化」に心を開き受け止めてくれた、
私たち「野球ファン」にとっても素敵な「父」でしたね。
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