「背番号なき現役」との出会い
私が初めて「マスク」を被ったのは11歳の時だった。
地元の軟式野球チーム「辰巳ドラゴンズ」に入部して2年目。
小学校5年で、トップチームに入れてもらった私は
背番号5をつけてサードを守っていた。
ところがある日の練習、ノックの途中で
「キャッチャー」に入るよう、伊藤監督と太田コーチに言われた。
しばらくして伊藤監督と太田コーチが言葉を交わした。
「肩もいいし、いいんじゃないか」
それから8年後、高校3年夏の西東京大会4回戦、
八王子工業に敗れるまではキャッチャー以外、
守ったことがない。
いや一度だけ、修徳高校との練習試合で
ピッチャーを任されたことがある。
ただそれは、あのイチローがオリックス時代、
溢れんばかりの才能を発散させた
オールスターゲームのマウンドのような華やかなものではなく、
練習試合のダブルヘッダー2試合目で
投げるピッチャーがいなくなり
少々球が速い自分に巡ってきただけのことだったように記憶している。
ただマウンドで見せたピッチングフォームは
コンパクトなキャッチャー投げで、
制球力はいいものの、素直すぎる球筋は、格好の餌食となり
痛打をたくさん浴びたと思う。
その後、2度と登板機会は巡ってこなかった。
いずれにしても「キャッチャー」こそが
私の小中高時代、一貫して守ったポジションであり、
小学校と、飛んで高校時代は
「4番」と「キャプテン」の肩書きも加わり、
分不相応ながら、チームの大黒柱として
虚勢を張り続けた日々だった。
そんな時だった。
ふらりと入った書店で手に取った本があった。
タイトルは、「背番号なき現役」
著者は「野村克也」

1981年の出版だから、私は14歳、中学2年生だった。
野村克也さんは現役引退翌年の46歳。
キャッチャーの役割を、深く、面白く、現実的に、
そして厳しく紹介していたように記憶している。
バッターと直接勝負するのはピッチャーだが、
その戦いを裏で操り、勝利に導く重要な決断を重ねているのが
「キャッチャー」だと、熱く紹介していた。
私はカバンに入れ、持ち歩き、そして繰り返し「読んだ」
高校時代には、マスク越しに、相手バッターに「ささやいてみた」し、
癖を見抜こうと必死になったし、相手の裏をかく配球にも気を配ってみた。
ただピッチャーの球を受け続け、
盗塁をしかけてくればセカンドに放るだけの受動的な姿勢から、
攻めて、仕掛けて、誘って、仕留めるような能動的な姿勢こそが
キャッチャーの醍醐味だと教えてくれたのが、「野村克也氏」だった。
その後は「野村ノート」や、
元西武の名将、森祗晶氏との「捕手ほど素敵な商売はない」
などの著書を通じ、
その後も「キャッチャーという役割」について探求したものだった。

あれから38年、
すっかり野球を「取材する側」に回ってしまったが、
投手の分析や、配球の意図、打者の狙い、ベンチの監督の采配など
私が試合を見る際のベースは「野村スコープ」に因るところが大きい。
王、長嶋を太陽と捉え、自らを「月見草」に例えた野村さん。
指導者としても阪神、楽天で指揮をとり、
「野村再生工場」として他球団を戦力外になった選手にもチャンスを与え、
見事日本一にも上り詰めたまさに「名将」だった。
天に召されたノムさん。
その教えは、これからも野球界を支え続けるだろう。
合掌―
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