高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2013年9月12日(木)

「世界のヤマシタ」から49年、再び・・・

2020年東京オリンピック開催が決まりました。

受け止め方はもちろん人それぞれですが

素晴らしき世界史の1ページが目の前で繰り広げられると思うと

今から、湧き立つ興奮を抑えきれませんね。

 

そして今回の開催に深みと興味を与えているのは

なんといっても、「東京」は2度目ということです。

 

49年前の1964年、昭和39年、

日本国民にとって、まさに未知との遭遇であった

世紀のスポーツ祭典「東京オリンピック」。

 

そこで見事、金メダルに輝いたのが

宇和島市出身の山下治広選手。(現姓:松田)

体操ニッポン、あの「ヤマシタ跳び」の山下選手です。

 

「今も忘れない...往年のメダリスト」

 今回は「山下治広選手」。

 96年7月2日の放送分からです。

 

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東京、千駄ヶ谷の国立競技場から

西に5分ほど歩いたところにある

東京体育館。

 

今から49年前の10月23日。

ここで一人の愛媛県人が、

我が国の体操界に新たな歴史を刻みました。

 

1964年、第18回東京オリンピック。

連日繰り広げられる世界トップクラスの技に

日本中が湧く中、

体操競技、個人種目別「跳馬」に出場した山下治広。

 

2回の跳躍で争うこの種目で、

彼が「1回目」の演技に選んだ技は

「ヤマシタ跳び」でした。

 

結果は「9.80」

自らが生み出した本家本元の美しい演技に

会場は酔いしれました。

 

しかし山下選手にとってオリンピックまでの長い道のりは

全て、この日の「2回目」のためにあったのです。

 

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昭和39年オリンピックの金メダルを獲得したその年、

日本体育大学体操部の後輩と結婚。

婿養子となり、以後、松田姓となりました。

 

その後、松田さんは、この大学の体育学科長を務め

塚原、監物、藤本といったモントリオールの金メダリストを

指導するなど

これまで体操一筋の人生を歩んできました。

 

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「毎日、練習するでしょ。

 すると色々な種目が出来るようになるじゃないですか。

 それが嬉しくてね。技の習得というのは物凄く喜びでしたね」

 

宇和島東高校体操部のエースとして活躍した山下さん(当時)は

その後、母校の先輩でオリンピックメルボルン大会のメダリスト

「河野 昭選手」を慕い、

昭和32年、日体大に進学しました。

 

しかしその後、全国から集った精鋭たちの中で

伸び悩んだ山下さんは

2年間で芽が出なければ、

宮崎の航空大学に行こうと考えていました。

 

しかしそんな矢先、

山下さんの体操人生に大きな転機が訪れたのです。

 

「河野昭さんが宇和島に帰ってこられて、

  オリンピック選手を連れて。

 で、自分も一緒に演技することになったんです。

 

 

 でも自分だけ失敗ばかりして、辱しめを受けましてね。

 東京に帰って、朝5時から練習に励むようになったんです。

 あれがなければ、今の私はなかったかもしれません」

 

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そしてその後は着実に力をつけ

迎えた昭和37年プラハの「世界選手権」の跳馬で

超難度の技を披露し「第2位」に。

 

踏切板を普通より後ろにずらし、

高さと距離を出すその跳び方こそ、

世界で高い評価を得た「ヤマシタ跳び」でした。

 

しかし―

 

「ヤマシタ跳びで世界選手権2位になりました。

 東京オリンピックは2年後だから、すぐ真似されるだろうと。

 私自身、東京オリンピックに出る以上は

 個人の金メダルが絶対に欲しかった。

 そのためには「跳馬」しかなかった」

 

ヤマシタ跳びの成功に酔う間もなく

その改良に着手した山下選手は

着地手前の空中で「ひねり」を1つ加えることを決断。

 

トランポリンで空中感覚を覚えるなど

その後の2年間はそっくりそのまま

金メダルのためだけに費やされました。

 

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そして迎えた1964年10月。

ついに「新ヤマシタ跳び」の

ベールを脱ぐ日がやってきたのです。

 

「あまり負担とか、心理的動揺はありませんでした。

 ただ、種目別の時に、選手村に試合ズボンを忘れましてね。

 慌てて取りに行ってもらって。

 それくらい抜けている所があるんですよ(笑)」

 

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1回目、「ヤマシタ跳び」で9.80を出し

全てをかけて迎えた、この日2回目の跳躍。

 

「自分が今までやってきたことは絶対に間違いない。

 やってきたことだけ やればいいんだ」

 

 そして強く踏切り、両手で跳馬を突きはなし、

 高く舞い上がった山下選手の体は

  鮮やかに1回転のひねりを加え

   そして見事着地に成功しました。

 

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この「新ヤマシタ跳び」で9.80を出した彼は

念願の種目別金メダルを獲得。

日本体操チームの団体総合優勝にも大きく貢献しました。

 

 

「オリンピックには、怪物というか...何が起きるか分からない。

 何が出てくるか分からない。

 十分に準備したとしても、無になる場合もあるし。

 しかし十分にやってこなければ、

 その怪物に立ち向かうことは出来ない」

 

 

 

幼い頃、新しい技のマスターに夢中になっていた治広少年が

「世界のヤマシタ」になった1964年、東京オリンピック。

 

あれから半世紀、

 今も輝き続ける栄光の1ページです。

 

 

 (49年前、愛媛に聖火が到着した「9月12日」に)

 

 

 

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