高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2011年12月03日(土)

元木さん発、「国立」経由、向井さん行き

その日、「日本のラグビー」は、私の目の前でこう語った。

 

「タックルする直前に脳裏をよぎる不安。

  それは痛みへの恐怖ではありません。

   自分の力を100%出しきれるかどうかが不安なんです」

 

あの日、「6万の国立」の地響きのような唸り声の中

誰よりも低く相手に突き刺さっていった紫紺の「12番」。

 

「元木由記雄」

 

日本ラグビー史上、最も敵にしたくない選手の1人である。

 

「気持ちが充実していれば、何本タックルに行っても全く平気なんです。

 問題は、そこまで気持ちをもっていけるかどうか。

 試合によってはそこまでの試合じゃない場合もある。

 大学選手権、日本選手権の国立ならば

 もう自然に気持ちも入っているんです。

 ただ、そこまででない試合もある。その時、どうするか。

 問題は全て自分自身にあるんです」

 

大阪工大高。いわゆる「ダイコウダイ」の1年の時には

すでにその名は業界中に知れ渡り、

高2、高3では当然のように「高校ジャパン」。

 

そして「メイジ」の1年からレギュラーに定着すると、

その後、大学日本一に「3度」輝いた。

 

「ラグビーの魅力。それは、ボールに思いがあること。

 ラグビーは、ただボールを横の人に回すだけではないんです。

 ひとりひとりの思いが、ボールに重なって回していくという

 競技なんです」

 

核心へ、言葉はパスを繋いでいく。

 

「痛い思いをしたヤツのお陰でこのボールが手元にある。

 だからミスは出来ないし、だからそいつのために

 『走るぞっ』と心が決まるんです」

 

そして、仲間の思いが結実する瞬間が訪れる。

 

ラグビーから学んだこと―

 

「仲間を裏切らない。

 仲間を裏切らないというのは、体を張り続けること。

 自分の力を常に出し続けること。

 そうしないと仲間からも認められないですから」

 

そんな「心」は、さらに神戸製鋼で花開き、

「骨軋むタックル」はさらに研ぎ澄まされ、

積み重ねた代表キャップ「79」は歴代1位。

国内唯一となるワールドカップ4大会連続出場。

その鈍く光る刃は、17年間に渡って味方を鼓舞し、

相手を恐怖に陥れた。

 

「好きなんでしょうね、タックルが」

 

その「モトキ」が、一目置く存在がいた。

2003年ラグビーワールドカップ。

桜のジャージの12番は、試合後、

血にまみれた1人の男の存在に目を奪われた。

 

「ワールドカップの時なんですが、机を叩いたらしくて。

 試合終わったら流血しているんですよ。

 僕らでさえ、そこまでいかないのに。

 足もケガしてたかな、もうホントにアツイ方で。

 でも、この人のために頑張ろうかという気にさせる方ですよ」

 

「向井昭吾」監督。

 

人呼んで「闘将向井」。

新田高校ラグビー部出身では2人目のジャパン監督だ。

2001年から代表監督を務め、

その「向井ジャパン」の主要メンバーだったのが元木だ。

 

「言っている事とやっている事が一致している人。

 表裏の全く無い人です」

 

その向井監督率いる「コカ・コーラウエスト」と

元木さんがアドバイザーを務める「神戸製鋼」が

あさって、ニンスタで公式戦を戦う。

 

真に、ラグビー界は繋がっていて愉快だ。

 

*******************************

 

 

その向井監督が選手時代の日本選手権決勝。

1988年1月15日、

社会人王者の東芝府中は早稲田に敗れた。

 

「アカクロ」が「ブルージャージ」を破った―

 

6万人で膨れ上がった国立に早稲田の「荒ぶる」がこだまするのを

東芝府中のFB向井昭吾は悔しい記憶として胸に刻むのだが、

その早稲田を日本一に導いた男。

 

それが「鬼のキモケン」。

 

向井監督の大先輩、「新田高校ラグビー部出身」の「木本建治」監督だ。

 

大学生が社会人を破る快挙は

日本ラグビー史上、この日が最後となり

トップリーグが出来た今、今後も成しえないであろう

「記録」として刻まれている。

 

このシーズンの早稲田はもう1つ、

「記憶」に残る名勝負を繰り広げた。

 

1987年12月6日 「雪の早明戦」

 

前夜、雨は夜更け過ぎに雪へと変わった―

 

「勝ったぞ!これは神風や!」

 

早稲田・木本監督が、

永田キャプテンの電話に叫んだその言葉は歴史に刻まれた。

 

さらに―

 

その木本建治監督が早稲田の選手時代に遡れば

自身もやはり「早明戦」の歴史に名を連ねている。

 

ただ木本のそれは試練の足跡・・・

 

早稲田の歴史で唯一、2部で戦ったのが

1962年、「木本キャプテン」の時代だった。

 

この年、2部で全勝し、

1年での1部復帰を果たした「木本組」は、

勢いそのままに12月2日の秩父宮、「早明戦」に臨み、

17対8で明治を破った。

 

そしてここでも繋がる。

 

この試合の「明治のナンバー8」。

それは、新田ラグビー部時代のチームメイト

「烏谷忠男」だった。

 

その同級生対決の4年後にも、

早稲田では2人の愛媛人が躍動する。

 

7番フランカーは、松山東高校出身の「和泉武雄」。

9番スクラムハーフは新田出身の「山本 巌」

 

ともに2年生ながら「アカクロ」を身に纏い

1966年12月4日、秩父宮で明治を破っている。

 

その「山本巌」は後にサントリーを経て、

1980年、82年には日本代表監督を務めている。

それは新田ラグビー部出身としては初の代表監督就任であった。

 

一方の「和泉武雄」は、後に「東海大学ラグビー部」の監督に就任。

「防御のタックルこそ攻撃の始まり」という

 「アタックル」の理論を進化させ

  「アタックル」の上を行く一撃必殺「アタッキル」の精神を

     選手に植え付けたと聞く。

 

そしてその指導を全身に浴びたのが「闘将・向井昭吾」であり、

後に先輩、「山本 巌」に次ぐ「日本代表監督」が誕生するのである。

 

 

ふう、これでめでたく振り出しに...

 

嗚呼、なんとラグビー界は繋がっていることよ!

 

 

最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。

 

 

 

 

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