高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2020年2月28日(金)

「全進」に中断なし 愛媛FC開幕、そして―

スタジアムはとてもいい天気だった。

真っ青な空と、そこかしこで目に映るオレンジ色とのコントラストは

すごく鮮やかで、気持ちまでシャキッとする感じがした。

 

J2が開幕し、愛媛FCはホームで開幕戦を迎えた。

試合開始の1時間も前になると、

ニンジニアスタジアム前の広場はサポーターで賑わい、

紅白の垂れ幕のステージからは、白星ならぬ白い餅が青空に舞った。


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ただ、その餅の落下点にいたサポーターたちに

笑顔の輪が広がっていたかは不明だ。

 

顔の下半分は「マスク」だったから・・・

 

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それでもサポータークラブ「ラランジャトルシーダ」の松本代表は言う。

「マスクはしてますが、みんな元気なので、

一緒に頑張りましょうと会話したところなんですよ」と明るい表情。

「必ず今いる選手たちは、やってくれると信じてます」

 

新体制がスタートしてから開幕日までの間は、

選手たちのトレーニングを見ながらシーズンへの期待を膨らませる一方で、

移籍や退団した選手たちの存在の大きさを噛み締める時間でもある。

こんなにも期待と不安が交錯する時はない。

 

それでもゴール裏に入れば、もう迷いはなくなる。


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ピッチに広がった巨大ユニフォームや

バックスタンドに広がった「アオアシ」小林有吾先生の巨大フラッグが

心の底で眠っていた闘争本能を呼び覚ましてくれる。


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ああ、また今年も始まる―

 

愛媛はJ2、15年目。

シーズン開幕の晴れがましい雰囲気はすでに14回経験している。

 

ただそれが、決して当たり前ではないこともみんな感じている。

 

「2011年」のことも、もちろん心に刻まれている。

 

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そして、「サッカーの力」を、「スポーツの力」を信じ

困難に向き合う心構えを、選手もサポーターも知っている。

 

新型コロナウイルス感染対策で、約20日間リーグ戦が中断された。

 

選手、監督もチームも地域とともにあり、

新たな敵に向き合い始めている。

 

ただ選手の表情は明るく、そこに迷いは感じられない。


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「全進」は、全員で前に進むこと―

 

 それは中断しない。


2020年2月22日(土)

「内股透かし」の光と影 20年の時を越えて


「内股透かし」


ましてや「フランス人選手」が相手となれば

やはり思い出してしまいますよね。

 

"世紀の誤審"

 

あれから20年―

あの日、日本人の胸に残ったモヤモヤを

ド派手に晴らしてくれたのは、

なんと「愛媛」の若き柔道家でした。

 

現地時間の2月8日、

フランスはパリで開かれた「柔道グランドスラムパリ大会」の

男子100キロ超級で、

新田高校出身、24歳の「影浦 心」選手が大金星を挙げました。

 

3回戦の相手は、地元フランスの「テディ・リネール」選手、30歳。

ロンドン五輪金メダル、リオ五輪金メダル。

それらを含めて公式戦10年間無敗の絶対王者。

 

179センチ、120キロの影浦。

204センチ、141キロのリネール。

 

試合は本戦4分間では決着つかず、

ゴールデンスコア方式の延長戦へ。

小柄な影浦との身長差は25センチ、けんか四つの体勢。

奥襟を掴まれ主導権はリネールでした。

 

しかし影浦に「狙っていた」という局面が訪れたのは

延長35秒過ぎ。

内股を仕掛けたリネール、

しかし影浦は、跳ね上げられた右足を

ここしかないというタイミングで透かすと、

支えを失ったリネールの巨体は本人の意思とは裏腹に

横倒しになり、その上に白い胴着の影浦の体が落ちてきました。

 

「技あり」

 

この瞬間、リネールの国際大会の連勝を「154」で止めた「影浦」。

「100キロ超級」の東京オリンピック代表選考レースでは、

リオ五輪と去年の世界柔道で銀メダルの「原沢久喜」に次ぐ2番手ながら、

この快挙は「世界の柔道界に衝撃を与え

「原沢絶対」のムードに待ったをかけました。

 

 

勝利を決めた「内股透かし」。

その言葉の響きは、これまで日本人にとっては

つらい出来事として記憶され、

当時の私も、NHKの道谷アナの声と共に叫んでいました。

 

「一本でしょう!」

 

2000年シドニーオリンピック

柔道男子100キロ超級決勝

篠原信一 対 ダビド・ドイエ

 

この"世紀の誤審"を生んだ一戦については、

当時の私も鼻息荒く、なんと「キャッチあい」でも取り上げていました。


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2000年シドニーオリンピック 柔道競技会場

(日本オリンピック委員会HPより)


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【2000年10月2日(月) 「キャッチあい」OAから】

 

(リード)

今回のシドニーでは柔道男子100キロ超級の決勝で

日本の篠原信一選手が、疑惑の判定で「銀メダル」となりました。

非常に後味の悪い思いをした方も多いと思いますが、

なぜあのようなことが起きたのか、そしてあの「事件」から学ぶことについて

愛媛でも考えてみました。

 

(VTR)・・・(映像はu-tube等でご確認を_(._.)_

篠原選手はドイエ選手の内股を透かし、一本を確信します。

この時、ひとりの副審は「一本」を揚げましたが、

もう一人の副審と、モナガン主審は「有効」。

しかもポイントは「ドイエ」選手に与えられました。

 

試合後、この判定は覆ることなく、世界最強の男、篠原は

2番目に高い台の上で涙を流しました。

 

この一戦について、審判歴20年以上のキャリアを持つ

棟田利幸さん(棟田康幸選手の父)は、

「試合後にアピールをした日本側にも問題があった」と指摘します。

 

一方、アトランタオリンピック強化コーチの濱田初幸さんは

審判の質に疑問を投げかけます。

問題の場面、篠原選手とドイエ選手は×印、

モナガン主審と2人の副審は、ご覧の位置にいました。

(映像はu-tube等でご確認ください_(._.)_・・・立ち位置の問題を指摘)

 

選手と審判の信頼で成り立っているスポーツ競技。

しかし今やここに「観客との信頼」を外すことはできません。

観客は、分かりやすく透明性の高いルール、判定を求め、

そしてそれが競技の質を高めることにもつながるからです。

 

商業主義、ドーピング問題など、オリンピックの在り方が問われている今、

疑問を放置せず声をあげること。これが21世紀に向けて

スポーツに携わるものに課せられた義務なのかもしれません。


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この問題で、「国際柔道連盟」は、五輪後の2000年10月30日に

チュニジアで開いた理事会で、

高度な返し技を主審が見抜けなかったのが原因で

ドイエの有効は誤審との見解を発表しました。

 

あれから20年、きのう開幕したサッカーJ1では

今シーズンから導入した「VAR」(=ビデオアシスタントレフリー)を

さっそく使用するなど、ラグビー、野球、テニスなどでも

映像判定が導入されています。

 

もちろんフェアであるべきスポーツの世界では自然な流れと言えますが、

フィギュアスケートや柔道など映像判定を導入していない競技もあります。

長い年月をかけて競技者として、指導者として、審判員として

養ってきた目でしか理解しえない判断基準もあるはずです。

 

映像判定の導入の良し悪しをここでは取り上げません。

 

ただ、競技者レベルの向上や技の進化を正当に評価できないジャッジシステムでは

競技そのものの質を下げることに繋がるのは

昔も今も変わりありませんよね。


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(えひめ武道界の聖地 愛媛県武道館)



2020年2月16日(日)

2020 for 第100回大会 えひめ楕円の青春 ③98年決勝

「花園」が、第100回を迎える2020年。

その歴史を支えてきた全国の歴代の高校ラガーマンたち。

愛媛でも、青春の日々を楕円球に捧げ、

その集大成「花園予選」では、

むき出しの闘志を解き放ったラガーマンたちがいた。

その「決勝戦」の生中継番組で、
私、高橋が実況を担当させていただいた
24年間の頂上決戦を振り返っていく。

3回目の今回は、「98年」の決勝戦。

では、キックオフ!

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98年の高校ラグビー界

新人大会(2月)、四国大会県予選(4月)、県高校総体(10人制)

いずれも新田が優勝。

花園予選では、第1シードの新田と、第2シードの松山商業が

決勝戦で対戦した。

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(当日の放送から)

第78回全国高校ラグビー大会県予選決勝、
新田 対 松山商業の一戦が
きょう県総合運動公園で行われました。
花園行きの切符を手にしたのは
どちらのチームでしょうか。白熱の一戦をご覧ください。

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連覇を狙う 紺にブルーのジャージは第1シード新田。

対する白と黒の縞のジャージは第2シードの松山商業です。

2年連続同じ顔合わせとなったきょうの決勝戦、

先制したのは新田でした。


前半6分、ゴール前のスクラムから

左サイドを突いた ナンバーエイトの柚ノ木が

左中間に持ち込み先制点を奪います。


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ゴールも決まって7対0とした新田は、

続く14分、ラックからのボールを2番山本、

強引に左中間に飛び込み、12対0とリードを拡げます。

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勢いに乗る新田は、17分にもトライとゴールを重ね、

26対0と松山商業を突き放します。



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これに対し松商は、得意の展開ラグビーを試みますが

新田の分厚いディフェンスの前に、なかなかトライを奪えません。


後半に入っても、新田の執拗な攻めは続き、

1分には、モールから9番脇坂がゴール右にトライを決め、

31対0と試合を優位に進めます。

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FW力に優る新田の前に、防戦一方の松山商業ですが、

徐々に調子を掴み、後半4分には、モールから松江、森田と渡り

最後はセンターの仙波が、中央に走り込み、ようやく5点を返します。


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後半に入りエンジンのかかった松商は、

続く8分にも、8番伊藤がキックしたボールを

センターの渡部浩平がうまく押さえ、トライ。

ゴールも決まって、31対12と新田に迫ります。



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しかし新田のサイドアタックが冴えわたり、松商陣内での試合が続きます。

新田はこの後も、3トライ、2ゴールを奪い、


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結局試合は、破壊力のあるフォワードを全面に押し出した新田が

45対12のスコアで、粘る松山商業を下し、

2年連続36回目の花園行きを決めました。


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【全国高校ラグビー大会愛媛県予選 決勝】

〇新田 45-12 松山商


 【新田】      【松山商】

 1糸目      1高須賀
 2山本      2杉田
 3森本      3松本

 4松原      4村上
 5服部      5原
 
 6平田      6有田
 7善家      7渡部昭
 8柚ノ木      8伊藤

 9脇坂      9松江
10森       10森田

11武智      11藤友
12芳野      12渡部浩
13松下      13仙波
14新名      14上河内
15林       15井手



【全国高校ラグビー大会】(花園)

1回戦 〇新田 59-5 東海大工

2回戦 ●新田 13-36 東海大仰星

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感動をありがとうございました。
























2020年2月12日(水)

「背番号なき現役」との出会い

 

私が初めて「マスク」を被ったのは11歳の時だった。

地元の軟式野球チーム「辰巳ドラゴンズ」に入部して2年目。

小学校5年で、トップチームに入れてもらった私は

背番号5をつけてサードを守っていた。

 

ところがある日の練習、ノックの途中で

「キャッチャー」に入るよう、伊藤監督と太田コーチに言われた。

 

しばらくして伊藤監督と太田コーチが言葉を交わした。

「肩もいいし、いいんじゃないか」

 

それから8年後、高校3年夏の西東京大会4回戦、

八王子工業に敗れるまではキャッチャー以外、

守ったことがない。

いや一度だけ、修徳高校との練習試合で

ピッチャーを任されたことがある。

ただそれは、あのイチローがオリックス時代、

溢れんばかりの才能を発散させた

オールスターゲームのマウンドのような華やかなものではなく、

練習試合のダブルヘッダー2試合目で

投げるピッチャーがいなくなり

少々球が速い自分に巡ってきただけのことだったように記憶している。


ただマウンドで見せたピッチングフォームは

コンパクトなキャッチャー投げで、

制球力はいいものの、素直すぎる球筋は、格好の餌食となり

痛打をたくさん浴びたと思う。

その後、2度と登板機会は巡ってこなかった。

 

いずれにしても「キャッチャー」こそが

私の小中高時代、一貫して守ったポジションであり、

小学校と、飛んで高校時代は

「4番」と「キャプテン」の肩書きも加わり、

分不相応ながら、チームの大黒柱として

虚勢を張り続けた日々だった。

 

そんな時だった。


ふらりと入った書店で手に取った本があった。

タイトルは、「背番号なき現役」

著者は「野村克也」


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1981年の出版だから、私は14歳、中学2年生だった。

野村克也さんは現役引退翌年の46歳。


キャッチャーの役割を、深く、面白く、現実的に、

そして厳しく紹介していたように記憶している。

バッターと直接勝負するのはピッチャーだが、

その戦いを裏で操り、勝利に導く重要な決断を重ねているのが

「キャッチャー」だと、熱く紹介していた。

 

私はカバンに入れ、持ち歩き、そして繰り返し「読んだ」

 

高校時代には、マスク越しに、相手バッターに「ささやいてみた」し、

癖を見抜こうと必死になったし、相手の裏をかく配球にも気を配ってみた。

 

ただピッチャーの球を受け続け、

盗塁をしかけてくればセカンドに放るだけの受動的な姿勢から、

攻めて、仕掛けて、誘って、仕留めるような能動的な姿勢こそが

キャッチャーの醍醐味だと教えてくれたのが、「野村克也氏」だった。

 

その後は「野村ノート」や、


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元西武の名将、森祗晶氏との「捕手ほど素敵な商売はない」

などの著書を通じ、

その後も「キャッチャーという役割」について探求したものだった。


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あれから38年、

すっかり野球を「取材する側」に回ってしまったが、

投手の分析や、配球の意図、打者の狙い、ベンチの監督の采配など

私が試合を見る際のベースは「野村スコープ」に因るところが大きい。

 

王、長嶋を太陽と捉え、自らを「月見草」に例えた野村さん。


指導者としても阪神、楽天で指揮をとり、

「野村再生工場」として他球団を戦力外になった選手にもチャンスを与え、

見事日本一にも上り詰めたまさに「名将」だった。

 


天に召されたノムさん。

その教えは、これからも野球界を支え続けるだろう。

合掌―


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