2020年東京オリンピック開催が決まりました。
受け止め方はもちろん人それぞれですが
素晴らしき世界史の1ページが目の前で繰り広げられると思うと
今から、湧き立つ興奮を抑えきれませんね。
そして今回の開催に深みと興味を与えているのは
なんといっても、「東京」は2度目ということです。
49年前の1964年、昭和39年、
日本国民にとって、まさに未知との遭遇であった
世紀のスポーツ祭典「東京オリンピック」。
そこで見事、金メダルに輝いたのが
宇和島市出身の山下治広選手。(現姓:松田)
体操ニッポン、あの「ヤマシタ跳び」の山下選手です。
「今も忘れない...往年のメダリスト」
今回は「山下治広選手」。
96年7月2日の放送分からです。
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東京、千駄ヶ谷の国立競技場から
西に5分ほど歩いたところにある
東京体育館。
今から49年前の10月23日。
ここで一人の愛媛県人が、
我が国の体操界に新たな歴史を刻みました。
1964年、第18回東京オリンピック。
連日繰り広げられる世界トップクラスの技に
日本中が湧く中、
体操競技、個人種目別「跳馬」に出場した山下治広。
2回の跳躍で争うこの種目で、
彼が「1回目」の演技に選んだ技は
「ヤマシタ跳び」でした。
結果は「9.80」
自らが生み出した本家本元の美しい演技に
会場は酔いしれました。
しかし山下選手にとってオリンピックまでの長い道のりは
全て、この日の「2回目」のためにあったのです。
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昭和39年オリンピックの金メダルを獲得したその年、
日本体育大学体操部の後輩と結婚。
婿養子となり、以後、松田姓となりました。
その後、松田さんは、この大学の体育学科長を務め
塚原、監物、藤本といったモントリオールの金メダリストを
指導するなど
これまで体操一筋の人生を歩んできました。
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「毎日、練習するでしょ。
すると色々な種目が出来るようになるじゃないですか。
それが嬉しくてね。技の習得というのは物凄く喜びでしたね」
宇和島東高校体操部のエースとして活躍した山下さん(当時)は
その後、母校の先輩でオリンピックメルボルン大会のメダリスト
「河野 昭選手」を慕い、
昭和32年、日体大に進学しました。
しかしその後、全国から集った精鋭たちの中で
伸び悩んだ山下さんは
2年間で芽が出なければ、
宮崎の航空大学に行こうと考えていました。
しかしそんな矢先、
山下さんの体操人生に大きな転機が訪れたのです。
「河野昭さんが宇和島に帰ってこられて、
オリンピック選手を連れて。
で、自分も一緒に演技することになったんです。
でも自分だけ失敗ばかりして、辱しめを受けましてね。
東京に帰って、朝5時から練習に励むようになったんです。
あれがなければ、今の私はなかったかもしれません」
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そしてその後は着実に力をつけ
迎えた昭和37年プラハの「世界選手権」の跳馬で
超難度の技を披露し「第2位」に。
踏切板を普通より後ろにずらし、
高さと距離を出すその跳び方こそ、
世界で高い評価を得た「ヤマシタ跳び」でした。
しかし―
「ヤマシタ跳びで世界選手権2位になりました。
東京オリンピックは2年後だから、すぐ真似されるだろうと。
私自身、東京オリンピックに出る以上は
個人の金メダルが絶対に欲しかった。
そのためには「跳馬」しかなかった」
ヤマシタ跳びの成功に酔う間もなく
その改良に着手した山下選手は
着地手前の空中で「ひねり」を1つ加えることを決断。
トランポリンで空中感覚を覚えるなど
その後の2年間はそっくりそのまま
金メダルのためだけに費やされました。
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そして迎えた1964年10月。
ついに「新ヤマシタ跳び」の
ベールを脱ぐ日がやってきたのです。
「あまり負担とか、心理的動揺はありませんでした。
ただ、種目別の時に、選手村に試合ズボンを忘れましてね。
慌てて取りに行ってもらって。
それくらい抜けている所があるんですよ(笑)」
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1回目、「ヤマシタ跳び」で9.80を出し
全てをかけて迎えた、この日2回目の跳躍。
「自分が今までやってきたことは絶対に間違いない。
やってきたことだけ やればいいんだ」
そして強く踏切り、両手で跳馬を突きはなし、
高く舞い上がった山下選手の体は
鮮やかに1回転のひねりを加え
そして見事着地に成功しました。
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この「新ヤマシタ跳び」で9.80を出した彼は
念願の種目別金メダルを獲得。
日本体操チームの団体総合優勝にも大きく貢献しました。
「オリンピックには、怪物というか...何が起きるか分からない。
何が出てくるか分からない。
十分に準備したとしても、無になる場合もあるし。
しかし十分にやってこなければ、
その怪物に立ち向かうことは出来ない」
幼い頃、新しい技のマスターに夢中になっていた治広少年が
「世界のヤマシタ」になった1964年、東京オリンピック。
あれから半世紀、
今も輝き続ける栄光の1ページです。
(49年前、愛媛に聖火が到着した「9月12日」に)