高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2013年09月25日(水)

「ため息」の重さは

クルム伊達公子が東レパンパシフィックで激高した

観客の「ため息」問題。

 

クルム伊達が第2セットのタイブレークで、

最初のポイントをダブルフォルトで失い

「あ~」の声が漏れ響くと

クルム伊達は「ため息ばっかりっ」と

怒りの交った大声をコートに響かせた。

 

日本のテニス会場に行くとわかるが

レベルが上がれば上がるほど

静寂のあとの拍手またはため息が、

同じような強さで響いているように感じる。

 

 

かつてメルボルンで全豪オープンテニスを観戦したことがある。

そこで驚いたのは、その賑やかさだ。

まるでビーチバレーかフットサルの会場にいるかのような

「スタンドの盛り上がり」を目の当たりにした。

 

国旗を顔にペイントし、立ち上がって旗を振り、

ポイントをあげればもちろんのこと、

ダブルフォルトをしようがしまいが、

声援がなかなか収まらない。

 

とにかく贔屓の選手を応援しまくる。

そしてレフリーから

何度も静寂を求める「サンキュー」の声が響き

ようやく次のサーブ。

 

ちなみに私が観戦したのは1、2回戦のコートで

センターコートではないが、

トーナメントの終盤でもその雰囲気は続いていた。

 

 

個人的な感想だが、日本のファンは

良くも悪くも「勝敗」を意識しすぎるのかもしれない。

「一発勝負のトーナメント文化」が浸透しているからだ。

次がない、後がない状況に追い込まれた中での勝負が好きだ。

 

 

幼い頃から「リーグ戦文化」で育っていればこうはならない。

その一戦に敗れても「次」がある。

次に挽回できるチャンスがある。

 

選手も観客もそう思っているから

大勝負にも出れるし、伸び伸びプレーできるし、

少々のミスにも大きな心で対応できるのかもしれない。

 

「クルム」と「伊達」 

 

2つの文化を知る彼女らしいと思った。

 

 

 

2013年09月24日(火)

安楽投手 伝説の末に訪れた痛み...  

安楽が肘を痛めた。

 

2013年9月22日(日)

四国高校野球県大会1回戦。

坊っちゃんスタジアムの第2試合。

 

「異変」はすでに1回表から明らかだった。

 

「投球練習の7球目」

この時点で肘に違和感を感じたという安楽は

先頭打者をレフトフライに打ち取ったが

2番打者の途中から投球間に肘をブルッブルッと振り始める。

 

その後、ランナー2塁3塁から

続く左打者に球威のないインハイをライト線へ運ばれ

2点を先制された。

 

そして迎えた「3回」。

実は安楽の降板を加速させた出来事があった。

 

ノーアウト1塁3塁で、西条は2盗を仕掛ける。

キャッチャーはすかさず送球・・・

 

しかしこれを長身安楽は

グラブを差出しカットするや否やバックホーム...

3塁ランナーの本盗を見事に阻止した。

 

しかし、「不意の送球」に

意識的にかばっていたはずの肘周りの筋肉は

体に染みついている「本能的な」動きに支配され

無防備のまま「1球」を投じてしまった。

 

そして次のバッターへの初球、

ボールは想定した軌道を大きく外れ、

右打者の胸元をかすめた。

 

安楽はここで自ら降板を訴え、

ついにマウンドを明け渡した。

 

しかし・・・この直後さらに安楽を不運が襲った。

 

ランナーは満塁。

2番手投手はサウスポー。

続く西条は左バッター。

 

外のボールで勝負に行くと

ひっかけた打球は1、2塁間を破った・・・

 

ライトは「安楽」。

 

前進してきた安楽はぎこちなくグラブにあててボールを掴むと

すかさず、素早いモーションでホームを狙い

右腕を振り切った・・・

 

ホームは間に合わなかった。

しかしそれ以上のことがすでに外野の芝の上では起きていた。

 

 

この回2度目の「不意の送球」に

安楽は体を折り曲げ、

右ひじの内側を左の親指で圧迫させながら

激痛に顔を歪めた。

 

 

 

 

s-IMAG2200.jpg

 

 

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春のセンバツ準優勝、

夏の愛媛大会157キロ、

甲子園最速155キロ、

台湾での18U野球ワールドカップ準優勝とベストナイン。

 

有り余る才能と規格外の球威、

そして躍動感あふれるピッチングフォーム...

「一高校生の部活動」と理解しながらも

多くの高校野球ファンがその限界値を知りたがり

彼の一挙手一投足に注目した。

 

しかしその一方で「投球過多」による不安は常につきまとい

その表裏一体のギリギリの攻防が

またさらに「16歳」の少年を輝かせたのも事実で、

無限の可能性という幻想に酔ってしまったファンも

少なくないだろう。

 

しかし、安楽は肘を痛めた。

 

 

*******************

 

春のセンバツ以降、私は2人の投手を取材し、

その肉声を放送した。

 

1人は、元北海道日本ハムで

愛媛マンダリンパイレーツの投手「金森敬之」。

 

「あれだけ投げられて、正直羨ましいなと思いますよ」

安楽のピッチングへの感想だ。

 

金森は東海大菅生高校から2004年、日本ハムに入団すると

07年に4勝、その後も先発、中継ぎと毎年10試合以上

1軍のマウンドで活躍してきた。

 

ところがおととし春、右ひじの靭帯を損傷。

去年3月には右ひじ側副靭帯の再建手術を受けたが、

オフには「戦力外通告」を受けていた。

 

 

「僕はどちらかというと、投げて投げて、打たれてまた投げて

みたいな感じでやってましたが、その反動が来たと思うんです。

でも投げないとつかない体力もあるし

投げないとつかない筋力もあるので、

そこは難しいところなんですよね。

でも、ケガをしたら負けですよ」

 

 

華やかなNPBの世界を後にした金森は

今シーズン、独立リーグから復活を期し、

慎重にリハビリとトレーニングを重ね、

後期リーグには中継ぎ投手の切り札として

活躍するまでになった。

 

「シーズン初めが、今の状態だったらね」

言葉に悔しさはにじむも、その表情は晴れやかだった。

 

「投げられる」ということが

 野球人にとって、投手にとってどれだけ意味深いことか。

 

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そして、夏の甲子園後に取材したのが

ジャイアンツや近鉄で活躍した「打者」吉岡雄二。

 

しかしかつては、

東京の帝京高校を夏の甲子園初優勝に導いた

「背番号1」だ。

 

1989年夏の甲子園で

吉岡は全5試合に登板し、3試合を完封、わずか1失点。

圧巻の内容で全国制覇を達成した。ところが・・・

 

大会終了後に行われた国際試合、「日韓米高校親善野球」。

ここで吉岡の肩は悲鳴を上げたのだった。

 

「振り返れば、やっぱりすごく疲労がたまっていて、

 甲子園で緊張している中で何試合も投げて、

 その後に1回気持ちが楽になった状態でまた投げた時に、

 気持ち的には大丈夫だったが、

 やはり...  そこで肩を痛めたんです」

 

結局、吉岡は

この年のドラフトでジャイアンツに入団するが、

すぐに右肩を手術。「打者転向」を余儀なくされた。

 

ただ、この時吉岡はこうも付け加えている。

 

「僕も高校の時、本当に3連投、4連投を経験しているんですが

 (プロ入り後は)高校生の時の、精神的な強さだったり、

 その時に培ったものもすごく大きかったので」

 

そして最後にこう語った。

 

「高校生は投げませんとは言いませんからね。

 高校生を止めるのは大変なことです。

 だからこそ指導者には

 冷静な判断をしてもらいたいなと思いますね」

 

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実は高校時代、キャッチャーだった私も

肘を故障した経験がある。

 

最もひどい時にはピッチャーまでボールが届かなかった。

鍼を打ち、灸を据え、テーピングをし、握力を鍛え、

そして軟膏のモビラートを擦り込み、

夏でも冷やすまいとサポーターを巻きつづけた。

学校、グラウンド、治療院、学校、グラウンド、治療院・・・

 

朝起きて、ボールを握って

もしかしたら、きょうは痛くないんじゃないか・・・

 

希望と落胆の繰り返し。

 

最後の夏が近づく中、まともに練習できず、

試合でも本来の力を出し切れない。

 

それでも本番になったら「腕が折れても...」

という覚悟は出来上がっていたように記憶している。

 

 

将来?何を言ってるんですか。

何のためにここまでやってきたんですか―

 

 

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日々、前のめりになって野球をしている球児たちに

冷静な判断を求めるのは難しい。

 

でも、最後は本人が決める。

 

それもそうだ。

 

 

ただ、あんなに面白い「野球」という競技を

将来に渡って「見るだけ」にしてしまうのは、

あまりにももったいないと思う。

 

 

 

 

2013年09月12日(木)

「世界のヤマシタ」から49年、再び・・・

2020年東京オリンピック開催が決まりました。

受け止め方はもちろん人それぞれですが

素晴らしき世界史の1ページが目の前で繰り広げられると思うと

今から、湧き立つ興奮を抑えきれませんね。

 

そして今回の開催に深みと興味を与えているのは

なんといっても、「東京」は2度目ということです。

 

49年前の1964年、昭和39年、

日本国民にとって、まさに未知との遭遇であった

世紀のスポーツ祭典「東京オリンピック」。

 

そこで見事、金メダルに輝いたのが

宇和島市出身の山下治広選手。(現姓:松田)

体操ニッポン、あの「ヤマシタ跳び」の山下選手です。

 

「今も忘れない...往年のメダリスト」

 今回は「山下治広選手」。

 96年7月2日の放送分からです。

 

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東京、千駄ヶ谷の国立競技場から

西に5分ほど歩いたところにある

東京体育館。

 

今から49年前の10月23日。

ここで一人の愛媛県人が、

我が国の体操界に新たな歴史を刻みました。

 

1964年、第18回東京オリンピック。

連日繰り広げられる世界トップクラスの技に

日本中が湧く中、

体操競技、個人種目別「跳馬」に出場した山下治広。

 

2回の跳躍で争うこの種目で、

彼が「1回目」の演技に選んだ技は

「ヤマシタ跳び」でした。

 

結果は「9.80」

自らが生み出した本家本元の美しい演技に

会場は酔いしれました。

 

しかし山下選手にとってオリンピックまでの長い道のりは

全て、この日の「2回目」のためにあったのです。

 

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昭和39年オリンピックの金メダルを獲得したその年、

日本体育大学体操部の後輩と結婚。

婿養子となり、以後、松田姓となりました。

 

その後、松田さんは、この大学の体育学科長を務め

塚原、監物、藤本といったモントリオールの金メダリストを

指導するなど

これまで体操一筋の人生を歩んできました。

 

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「毎日、練習するでしょ。

 すると色々な種目が出来るようになるじゃないですか。

 それが嬉しくてね。技の習得というのは物凄く喜びでしたね」

 

宇和島東高校体操部のエースとして活躍した山下さん(当時)は

その後、母校の先輩でオリンピックメルボルン大会のメダリスト

「河野 昭選手」を慕い、

昭和32年、日体大に進学しました。

 

しかしその後、全国から集った精鋭たちの中で

伸び悩んだ山下さんは

2年間で芽が出なければ、

宮崎の航空大学に行こうと考えていました。

 

しかしそんな矢先、

山下さんの体操人生に大きな転機が訪れたのです。

 

「河野昭さんが宇和島に帰ってこられて、

  オリンピック選手を連れて。

 で、自分も一緒に演技することになったんです。

 

 

 でも自分だけ失敗ばかりして、辱しめを受けましてね。

 東京に帰って、朝5時から練習に励むようになったんです。

 あれがなければ、今の私はなかったかもしれません」

 

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そしてその後は着実に力をつけ

迎えた昭和37年プラハの「世界選手権」の跳馬で

超難度の技を披露し「第2位」に。

 

踏切板を普通より後ろにずらし、

高さと距離を出すその跳び方こそ、

世界で高い評価を得た「ヤマシタ跳び」でした。

 

しかし―

 

「ヤマシタ跳びで世界選手権2位になりました。

 東京オリンピックは2年後だから、すぐ真似されるだろうと。

 私自身、東京オリンピックに出る以上は

 個人の金メダルが絶対に欲しかった。

 そのためには「跳馬」しかなかった」

 

ヤマシタ跳びの成功に酔う間もなく

その改良に着手した山下選手は

着地手前の空中で「ひねり」を1つ加えることを決断。

 

トランポリンで空中感覚を覚えるなど

その後の2年間はそっくりそのまま

金メダルのためだけに費やされました。

 

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そして迎えた1964年10月。

ついに「新ヤマシタ跳び」の

ベールを脱ぐ日がやってきたのです。

 

「あまり負担とか、心理的動揺はありませんでした。

 ただ、種目別の時に、選手村に試合ズボンを忘れましてね。

 慌てて取りに行ってもらって。

 それくらい抜けている所があるんですよ(笑)」

 

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1回目、「ヤマシタ跳び」で9.80を出し

全てをかけて迎えた、この日2回目の跳躍。

 

「自分が今までやってきたことは絶対に間違いない。

 やってきたことだけ やればいいんだ」

 

 そして強く踏切り、両手で跳馬を突きはなし、

 高く舞い上がった山下選手の体は

  鮮やかに1回転のひねりを加え

   そして見事着地に成功しました。

 

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この「新ヤマシタ跳び」で9.80を出した彼は

念願の種目別金メダルを獲得。

日本体操チームの団体総合優勝にも大きく貢献しました。

 

 

「オリンピックには、怪物というか...何が起きるか分からない。

 何が出てくるか分からない。

 十分に準備したとしても、無になる場合もあるし。

 しかし十分にやってこなければ、

 その怪物に立ち向かうことは出来ない」

 

 

 

幼い頃、新しい技のマスターに夢中になっていた治広少年が

「世界のヤマシタ」になった1964年、東京オリンピック。

 

あれから半世紀、

 今も輝き続ける栄光の1ページです。

 

 

 (49年前、愛媛に聖火が到着した「9月12日」に)

 

 

 

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