「打たれ強い」仕事
日差しは春本番だった。
午後3時半をまわっても気温は高く
じっとしていても汗ばむような陽気。
もちろん練習している選手達は
心地よい汗を流している。
試合開始2時間半前。
坊っちゃんスタジアムのグラウンドは
ヤクルトスワローズの練習時間から
広島カープの練習時間に移り変わろうとしていた。
内外野に散っていたヤクルトの選手達が
徐々にダッグアウト方向に歩を進める。
時折り、対戦相手の広島の選手とすれ違いざまに談笑。
そんな姿を目にするのは、
開場前のスタジアムの醍醐味だ。
そんなリラックスムード漂うスタジアムの中、
ファウルグラウンドで、ゆったりとキャッチボールを繰り返す
1人のサウスポーに目が留まる。
広島カープのユニフォーム。
しかし、背番号は3桁の「102」
その人の名前を私は知っていた。
「豊田 光」さん。30歳。
愛媛マンダリンパイレーツの元投手。
しかも1期生だ。
和歌山県出身で、日高高校から竜谷大学、
そして和歌山箕島球友会。
そして、コントロールのいいピッチャーとして入団したが、
ほとんど登板は無かった。
故障と戦っていた。
1年後、パイレーツを退団。
豊田さんはここで現役を引退した。
しかし当時、パイレーツの初代監督は
広島カープ出身の西田真二さん。
豊田の就職先として、
カープの打撃投手が用意されていた。
あれから7年。
豊田さんは、また坊っちゃんスタジアムに立っていた。
午後3時45分、入念なキャッチボールが続く。
そして、落ちているボールをグラブいっぱいに拾いながら
豊田さんは所定の位置に付いた。
今夜の試合、ヤクルトは左の村中。
豊田さんの投げるボールの意味が一段と重みを増していく。
広めのスタンスでセットポジションに入り、
上げた右足の膝をくの字に曲げ、
しなやかなフォームでボールを投げる。
かごから次ぎのボールを拾い、また投げる。
同じリズムでまた投げる。
打たれるために投げる。
気持ちよく打ってもらうために投げる。
誰よりも打たれることが、自らの存在意義。
それこそが仕事であり、そここそが職場である。
乾いた快音が糸を引く。
変化球も投げる。
「村中」にはなれないが、ボールの回転が
少しでも「村中」に似ていることを祈りながら。
午後4時。開場。
内野、外野のスタンドに、ファンがどっと飛び出してきた。
にわかにスタジアムの体温が上昇する。
そして、ファンの熱い視線を浴びるバッターを
少しでも引き立てようと、投げる。
自分が視線を浴びることはない。
ただ確かに、豊田さんは、
ファンに夢を与える仕事を支えていた。
「ありがとう」
豊田さんは帽子のツバをつまみ、
軽く笑みを浮かべながら、
腕で額の汗をぬぐい、
静かにダイヤモンドを後にした。
試合開始1時間前、
豊田さんの「仕事」が終わった。