高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2011年10月28日(金)

初の100キロ越えは「とびしま海道」

日はとうに暮れたが、心は晴れていた。

 

広島県の呉港に着いたのは午後7時すぎ。

ペダルをこぎ続け、計6時間。

気がつけば、100キロ走っていた。

 

両足はパンパン。

運動不足なんだから当然だ。

 

でもこの達成感―

 

s-メーター.jpg 

(チャリのメーター)

 

 

 

 

 

午前10時に松山を出発し、

北風に心が折れそうになりながらも

196号を北上しながら午後0時半に今治港に到着。

 

 

s-今治港.jpg 

(今治港から 遠くに来島大橋が見える)

 

 

道中の写真は無い。

撮るまでもないほど車では何度も通った道だ。

 

しかしこんなに遠かったのか。

でも約40キロ。すでに自己ベスト更新でニヤリ。

 

ここから大三島ブルーラインで来島大橋をくぐる。

 

s-フェリー.jpg

(高速船で来島大橋の向こうへ)

 

 

そして午後2時前、

大三島の隣、広島県の「大崎上島」の木江(きのえ)港へ。

 

ここから「安芸灘とびしま海道」の旅が始まった。

 

 

裏しまなみ海道とも言われるこのルート。

しまなみほど、道路状況などは整備されていないが

素朴でゆったりした「島時間」こそが最大の魅力。

全国のサイクリストからも、今注目されているらしい。

 

 

s-地図.jpg 

(自転車雑誌の特集ページ 赤い線がとびしま海道)

 

 

 

大崎上島の木江港からは、まず明石港へ移動。

ここでフェリーに乗るのだが、時間が合わずいきなり1時間待ち。

それでも明石の港町は静かで、かなり静かで、とても静かだったので

私の心も次第に浄化されていくのを実感。

 

フェリーで約15分。

隣りの「大崎下島」に着いたのが、午後3時40分。

ここから秋の西日との競争となってしまった。

 

道中写真は無い。余裕も無い。

 

しかしこの「とびしま海道」には魅せられる。

ぜひ何かのHPで写真のチェックを。(スイマセン!)

 

 

そして「大崎下島」から「豊浜大橋」を渡って「豊島」へ。

さらに「豊島大橋」を渡って、次ぎの「上蒲刈島」へ。

 

そして「蒲刈大橋」を渡って「下蒲刈島」へ。

西日との競争にはあえなく敗れ、この時点で日没。

しかしなんとか「安芸灘大橋」を渡って本州へ。

 

そしてここから道路事情は一変、

呉市外を目指す国道185号は夕方のラッシュ。

黙々と白線の内側でアップダウンを繰り返し、

長~い自転車専用のトンネルを抜けて

呉の中心街をやり過ごし午後7時、呉港に到着。

 

最終便に間に合った。

 

s-呉港.jpg

(呉港の桟橋 向こうは造船所)

 

ここから石崎汽船のフェリーで約2時間。

 

のんびり揺られて松山へ。

 乗船してからの記憶はあまりない。

 

 

それでも100キロ!

 

道はやはり繋がっていた。

 

 

 

2011年10月17日(月)

背番号なき現役

その体育館には笑顔が溢れていた。

 

愛媛マンダリンパイレーツの「ファン感謝デー」。

毎年リーグ戦終了後に開かれる

ファンと選手、スタッフとの年に1度の触れ合いの場だ。

今年もゲームやクイズ、抽選会など大いに盛り上がった。

 

s-体育館.jpg

 

決して多いとはいえないものの、

ほぼ全ての試合に足を運ぶコアなファンを持つパイレーツにとって、

それは毎年、交流の場というよりも、

選手とファンが互いの労をねぎらうまさに「打ち上げ」の雰囲気となる。

 

ところがその「打ち上げ」には

現実に引き戻される瞬間が用意されている。

「退団選手」の発表と挨拶だ。

 

13人。

 

今年のメンバー24人の半分以上がチームを去る。

多くは現役引退を決意し

「第2の人生」に踏み出すことになる。

 

したがってこの日の笑顔は

野球選手のそれというよりも

年相応の「若者」たちの「精神的たくましさ」から来る

エネルギーなのかもしれない。

 

s-あいさつ.jpg 

(今季最終戦 坊っちゃんスタジアム)

 

 

 

「野球で夢を見続けたい」

 

様々な思いや過去を背に愛媛にやってきた若者たち。

野球漬けの毎日は想像どおりの世界だったろうか。

納得のいく毎日だったろうか。

 

野球人には、2種類の人間しかいない。

プロ野球選手になった者と

プロ野球選手になれなかった者。

 

しかし本当の「現役」と「引退」の線引きは

野球を愛し続ける人間と

野球を嫌いになった人間との間にのみ引かれているのかも。

 

この日、一線を退く決意を固めるために

野球から目をそらす方法を取った選手もいるかもしれない。

全てを注いできた「肉体的全力野球」。

それを手放す不安は想像に難くない。

 

s-あいさつ2.jpg 

(今季最終戦 最後の挨拶)

 

 

ただ、どうだろう。

野球の奥深さを知るのは、これからだったりして...。

大丈夫!

そう簡単に「現役」を退けられると思ったら大間違い!

 

パイレーツを巣立った多くのOBの

頭の中をどうぞ覗きに行ってみるといい。

160キロの快速球を投げ、

シーズン40ホーマーを放ち

アベレージ4割越えを果たすための理論が渦巻いているはず。

それは全て、生きるエネルギーに繋がっているように思う。

 

「背番号なき現役」

新たな野球人生の始まり―。

 

 

みなさん本当にお疲れ様でした。

またお会いしたいですね。

グラウンドで!スタジアムで!

 

 

PS:比嘉将太選手の「シーサー踊り」は一生忘れません。

2011年10月14日(金)

再起へ、「本能」の一投

今月10日、山口国体。

維新百年記念陸上競技場。

 

s-山口国体会場.jpg

 

現れたのは村上幸史。

国体の成年男子やり投げで優勝7回。

 

 

この日も、いつも通りの準備をして、

いつもと同じ色のメダルを手にすることは、

村上にとって決して難しい作業には見えなかった。

 

ところがこの時村上は

かつて経験したことのない心の揺れに苦しんでいた。

 

「新鮮な気持ちの中で試合を迎えられた反面と、

 不安を持って試合を迎えた反面と、

  そういった色々な思いが入り混じって・・・」

 

 

先月の世界陸上テグ大会。

 

村上は前回大会の「銅メダリスト」。

さらに日本選手団の「キャプテン」。

そして何よりも、

来年のロンドンオリンピックの表彰台に向け

目標は「85メートル」。

 

しかし「80メートル19」で15位。

まさかの予選落ちで戦いは終わった。

 

 

村上に、一体何が起きたのか―。

 

 

あの日、競技場で村上をサポートしていたのは

高校時代からの恩師、浜元一馬コーチ。

1投目の感覚のズレが明暗を分けたと分析する。

 

「たぶん本人の感触の中には82、3mの感触はあったと思う。

 それで80メートルというので、

 ちょっと自分の中であせりが出たのではないかと思う」

 

1投目のあと、浜元コーチは村上に声をかけている。

 

「少し肩の開きが早い」

 

肩が開くと、下半身のエネルギーが外に逃げ、

腕の振り幅も小さくなり、やりに力が伝わらなくなる。

 

「最後左足をつける時の左足の開きが早かったので、

 それを微調整するための方法としては、

  助走のスピードを上げるか、

   逆に下げるか、どちらかなんですよね」

 

そこで村上は1投目のあと、

助走の開始位置を「4レーン上」から「5レーン上」に変更。

スピードをあげ、肩の開きを抑えるためだ。

 

ところが―

 

予選3投目までにフォームの微調整は効かなかった。

 

 

「甘かったです」

 

 

この言葉を残し、村上は競技場を後にした。

 

失った感覚。

期待に応えられなかった悔しさ。

 

帰国後、村上の姿は

東京のナショナルトレーニングセンターにあった。

たった1人での合宿は2週間に及んだ。

 

「苦しいのはお前が一番苦しいんだから、やるしかない。

 この世界は結果しかないんだから、結果でみんな評価するんだから。

  結果が出なかったのは何かもろさがあるから、

   頑張らないかんな」

 

浜本コーチはそう伝えている。

 

 

迎えた山口国体。

世界陸上後初の公式戦。

失ったフォームと自信を取り戻せるか―

 

1投目、71メートル34。

厳しい数字だ。

 

さらに2投目はファウル...

全くフォームが噛み合わない。

 

しかし村上は試合を捨てなかった。

プライドをかなぐり捨て、必死にイメージを膨らませ

気合を入れ直した。

 

そして3投目。

放物線の軌道が変わった。

 

「79メートル08」

 

自己ベストには程遠い。

 

しかし忘れかけていた感覚を土壇場で取り戻し

 村上は「8度目の優勝」を決めた。

 

 

 s-yamaguti.jpg

 

 

表彰台の上で村上は

少し照れくさそうに、賞状を頭上に掲げた。

 

「3本目に、いい意味で開き直って自分の体に任せようと。

 今までやってきた自分の体の方が覚えているだろうということで、

  『本能的』にやったわけなんですが、

            ひとついい経験になりました」

 

試練の世界陸上から1ヶ月。

 

村上は、苦しみながらも

 

   再起への第一歩を踏み出した。

 

 

 

 

2011年10月13日(木)

RFL

 

 

尊厳と名誉の象徴

 

 

s-111008_1916~0001.jpg

 

2011年10月8日 松山

 

また勇気をいただきました

 

ありがとうございます

 

 

2011年10月13日(木)

快挙の12時間後―

「カップまで何ヤード?はい、歩測して!」

 

早朝の北条CCの練習グリーン。

知人のご子息にパターのアドバイスを送るのは

松山幹男さん。

 

かつては日本アマ、そして国体にも出場した

愛媛のトップアマだ。

 

「左足を引いて、膝は揃えて・・・」

 

ゴルフで大きな夢を見るその瞳に応えるように

丁寧にアドバイスを送っては

スイングを繰り返すそのジュニア世代の姿に、

幹男さんは、ある人物を重ねる。

 

それは、今から10年前の息子の姿―

 

「松山英樹」。

 

この1時間前、幹男さんはクラブハウスで静かに

「きのう」の快挙を振り返った。

 

「2日目を我慢できたことが一番大きかったです。

 それでもアンダーパーでしたからね」

 

9月29日。

シンガポールで行われた「アジアアマチュア選手権」。

 

去年、この試合で初出場初優勝を果たした松山英樹は

舞い込んだマスターズの切符を手にオーガスタに乗り込み、

ローアマに輝き、表彰式でシルバーカップを手にした。

 

「あの場所に絶対戻りたい」

 

ディフェンヂィングチャンピオンとして臨んだ今年、

松山は初日5アンダー2位タイと好スタートを切るも

2日目は1アンダーと足踏みする。

 

しかしここで我慢できたことが逆に功を奏し、

3日目、7アンダーと爆発。1打差で2位に浮上。

そして最終日、終盤、韓国のイ・スミンの猛追を受けたが

結局5アンダー、最後は1打差でねじ伏せ、

通算18アンダーで優勝。

ラスト2日を気合のノーボギーで2連覇を達成し

2年連続マスターズ出場権を獲得した。

 

 

 s-111004_1513~0001.jpg

 

 

その12時間後―

 

「英樹もね、ここで色んなことして、朝から晩まで遊んどったよ」

 

北条CCのコース脇にある小さな練習グリーン。

その周りに生えている木々、くぼみ、草、斜面・・・

全てがマスターズへ繋がった。

 

「そうそう、いい感じで来てる」

 

また半年後、時差と戦う大変な4日間がやってくる。

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