高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2009年12月28日(月)

バルバリッチの言葉

未来の事を口にするのはリスキーだ。

 

   しかしそれが

 

       今はエネルギーになっているし、

 

        やれる自信もある」

 

 

         愛媛FC バルバリッチ監督 2009年12月 

 

 

2010年の目標を尋ねた時のバルバリッチ監督。

来日3ヶ月目の指揮官は

言葉を選びつつ慎重に、しかし胸に秘めた信念を口にしてくれた。

クロアチア出身で旧ユーゴ代表、あのオシム監督の教え子でもある。

「言葉」が宙をさまようことはない。

 

 

多民族国家ゆえに古代から内戦、紛争が続いてきたバルカン半島。

トルコ、ギリシア、アルバニア、ブルガリア、

さらに旧ユーゴスラビアの

マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、

そしてボスニア・ヘルツェゴビナ・・・。

 

92年に勃発したボスニア紛争が終結したのは95年とついこの前。

紛争の末に独立を宣言したコソボを巡っては

未だ国際的にも不安定な状況だ。

 

そんな状況で日々と向き合う中、

大切なのは「その日」「その時」「その瞬間」。

その積み重ねが「あす」になるのだろう。

 

刻一刻と変わっていく社会情勢の中で、自分はどう動くべきなのか。

愛する者たちを守るためにはどうすればいいのか。

「根拠なき希望」は時間の浪費なのかもしれない。

 

フットボールも同じか。

「今」の積み重ねが「あす」の前進につながり、

それがいつしか「劇的な変化」を生む。

バルバリッチ監督はそれを知る。

 

s-空.jpg 

(空  希望の宿る場所)

 

 

来日直後、中盤でボールを簡単に奪われる様子に

バルバリッチ監督は

「戦うために最も大切なことがおろそかになっている」と指摘した。

 

「武士」に興味があるという。

全く初めて訪れた国、極東の「日本」。

これまでの人生で接点はほぼ皆無に等しい。

ただ「戦い」に臨む「武士」の姿勢はバルバリッチの心を捉えていた。

「侍スピリッツ」に触れることを楽しみにバルバリッチは来日した。

 

それが失望に変わったかどうかは定かではない。

しかしフットボールがその国を映し出す鏡であるならば

この国の若者たちを束ねるのは

容易でないことくらいは察知しただろう。

 

s-愛媛FC ゴール運び.jpg 

(心をひとつに 愛媛FCイレブン 写真左から2番目がバルバリッチ監督)

 

 

「サッカーはサポーターのためにやっているものだ」

 

バルバリッチ監督はこう言い切る。

 

「私たちが勝利で得る喜びよりも、

 サポーターが喜ぶことで得られる喜びの方がはるかに大きい」

 

そのサポーターに「借りを作った」と何度も語ったバルバリッチ監督。

 

シーズン終了後、冬の夕方ピッチ上にて30分間のインタビュー。

しかし2010シーズンを見つめるその表情は

西日のせいか晴れやかに見えた。

 

 

「戦う」とは何か―

 

2010年

 オシムの教え子が、

   愛媛でいよいよ刀を抜く―

 

2009年12月 6日(日)

花園の涙から10年・・・

s-山本貢.jpg 

 

 

心に、熱い思いみたいなものが

                              試合前はあって・・・

 

    三洋電機ワイルドナイツ 山本 貢選手

 

(2009年12月6日 ニンジニアスタジアム)

 

ラグビートップリーグ2年ぶり4回目の愛媛開催が「凱旋試合」となった

新田高校出身、三洋電機の「山本 貢」選手。

元日本代表、トップリーグ6年目の28歳は

今シーズン、チームの全勝、首位独走に大きく貢献している。

 

試合後、久しぶりの愛媛でのプレーについて尋ねると

こう一言答えてくれた。

 

*********************************

 

丁度10年前の「99年」、

山本は新田ラグビー部のキャプテンに就任すると

フッカーとして「高校日本代表候補」にも選出。

全国高校ラグビー愛媛県大会では

決勝で河野晴吾キャプテン(後に明治大)率いる松山聖陵を

32対0で破りチームの「3連覇」に貢献した。

 

そして「花園」。

 

1回戦では「富山第一」を19-15で破り初戦突破。

山本も1トライを決め、富山の猛追を振り

新田の「花園通算30勝目」に貢献した。

 

ところが・・・

山本はこの試合で「右足首を捻挫」。

 

しかし2回戦の相手は全国屈指の強豪「国学院久我山」。

山本は翌日、大阪市内の河川敷グラウンドで行われた練習中も

歩くのがやっとの状態だったが、取材陣に一言。

 

「強い相手と戦えるのは楽しいから」

 

ややうつむき加減だったが、その口元には笑みが浮かんでいた。

 

そして翌日の99年12月30日。

山本の姿は花園の芝の上にあった。

 

「痛いかゆいを全く言わない男です」

亀岡政幸監督(当時)はその心意気の前に

逸材の「将来」よりも「目の前の一戦」を優先した。

 

座薬と痛み止めを打っても痛いものは痛い。

しかし60分間、前に出続けた「背番号2」を

後輩たちはしっかりと目に焼きつけ、ノーサイドの笛を聞いた。

 

結果は、「新田0-70国学院久我山」

 

深く鮮やかな緑の芝の上に落とした「大粒の涙」―

 

しかし山本はその「意味」を、翌年から「実行」に移した。

 

関東学院大学に進み、才能が一気に開花すると、

2000年から関東大学リーグ戦を全勝優勝で4連覇。

大学選手権では4年間で3度学生日本一に輝くと、

三洋電機でトップリーガーとなり日本代表にも選ばれた。

 

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s-三洋電機.jpg

 

そして三洋電機6年目の今年、初冬の愛媛に凱旋。

優勝へ真っ直ぐ突き進むチームの一員として

慣れ親しんだ芝の臭いに熱く燃えた。

 

泥臭くクボタの選手に絡み、倒し、

ブレイクダウンで圧倒。

そして前半39分

ドライビングモールを生かして「1トライ」を決めた。

 

「みんなのお陰で取れたトライなんで、みんなに感謝したいと思います」

 

赤いジャージに刻まれたあの日と同じ背番号「2」は、

西日を受けて誇らしげに輝いていた。

 

 

 

2009年12月 2日(水)

『村山さん』のように

s-秋山投手仮契約 .jpg

(両親と喜びの写真撮影 秋山拓巳投手)

 

OBの『村山さん』みたいに先発でグイグイ押せる

       スケールの大きな投手になってほしいね」

                

                      2009年11月27日 阪神 山本宣史スカウト

 

 

今年10月のドラフト会議で西条・秋山拓巳投手を4位指名した阪神。

この日はJR伊予西条駅にほど近い、西条国際ホテルで仮契約を結んだ。

 

約40分間行われた交渉の後、秋山投手は会見で

「高校時代にやり残したことがあったので、

  それを今度はプロの世界でぶつけたい」と

        甲子園での登板が待ちきれない様子。

 

またドラフト当日は「4位指名」によって

秋山投手の機嫌を損ねてしまったが、

この日山本宣史スカウトは

「将来は先発ローテーションの柱として頑張ってもらいたい」

と明言するとともに、阪神に身を置くものとしては最高評価に値する

「村山」の名を用いて期待の大きさを表現した。

 

さらに・・・

 

「送りバントも自信あるって、本人言ってたよ」

 

阪神 佐野仙好西日本統括スカウト

 

Qチャンスで秋山君に回って来たらベンチはどうするでしょうか?

 

打撃にも非凡な才能を併せ持つ秋山投手だけに気になるところ。

この私の質問に、今回同席された「佐野仙好西日本統括スカウト」は

上のように述べ、

セ・リーグ「先発完投型投手」の必須科目「バント」も

問題なしと見ている。

秋山は「チャンスで代打」のいらない投手として

「虎のエース」としての第1関門をまずは軽々クリアしたようだ。

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