信は力なり
選手は十分力を発揮し、
自分たちのラグビーをすることができた。
選手を誇りに思う。
松山聖陵 丹生谷直志監督(61)
(2009年11月23日)
「第89回全国高校ラグビー愛媛県大会決勝」は
三島の3年ぶり2度目の優勝で幕を閉じた。
しかし敗れた松山聖陵もスタンドの応援団を大いに沸かせた。
それはなぜか―。
「スタイル」を貫く姿勢があったからかもしれない。
持ち味、定番、オリジナリティ・・・などとも言い換えられるが、
ここでは「必殺技」の方がぴったりくるだろうか。
決勝戦。
前半を終えて、三島24-0松山聖陵。
4トライ差以上の差がついていた。
しかも三島の練りに練られた試合運びに翻弄され
松山聖陵の見せ場はほとんどなかった。
しかし丹生谷監督に迷いはなかった。
むしろこの点差をチャンスと捉えていた。
さかのぼること1週間前の準決勝、野村戦。
松山聖陵は前半24-5とリードしたことで油断し、
後半野村の猛追撃に遭い、結局36-31の1トライ差。
薄氷の勝利で学んだことは少なくなった。
そして決勝戦の後半。
①松山聖陵はまず、開始4分、
10番江戸~12番田中キャプテン~15番城戸
BKがつないでトライ。
②後半12分にには、10番江戸~12番田中キャプテン~15番城戸、
そして最後は11番寺田と再びBKがつないでトライ。
③さらに後半16分には
ゴール前のラインアウトモールから
最後は13番小川が左サイドを突いてトライ。
これで松山聖陵は一気に10点差=2トライ差に詰め寄った。
そしてこれらのトライは全て、何度も何度も練習してきた
松山聖陵の「必殺技」。
自分たちはもちろん、スタンドのファンも、
さらには相手チームも最も警戒していた作戦だった。
味方に「期待」され、相手に「警戒」され
それでも「成功させる」ことの美しさ―。
そこには「絶対の自信」と「強烈な意識」と
そして「無意識への昇華」が伴って初めて完遂できる輝きがある。
戦前、丹生谷監督に尋ねた。
「自分たちの良さを出す」
「相手の良さを消す」
決勝戦ではどちらですか?
「勝つことも大事だが、もっと大切なのは人間形成。
仲間とともに、自分たちの信じるスタイルを貫きたい」
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ラグビーでは競技の特性上、アタック、ディフェンスの選択肢が
限られることも多い。
道具を持たず、己の肉体を武器として投げ出すためだ。
ポジション別の役割はともかく、
集まった15人の肉体的特性を最大限に生かそうとすれば
やはりFW主導型。BK主導型。キック多様型など
戦術は自ずと決まってくる性質がある。
それはメイジの「前へ」だったり、
東芝府中の「PからGO」だったり、
神戸製鋼の「フラットライン」だったり。
さらには「大西鐡之祐」氏率いるワセダの
「展開、接近、連続」だったりする。
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「大西鐡之祐」氏(故人)は
元早稲田大学ラグビー部監督で元日本代表監督だ。
様々なエピソードを抱える日本ラグビー界の重鎮だが、
最も代表的なものの1つが、
1971年のイングランド代表初来日での死闘であろう。
この時、極東の日本代表は「ラグビー母国」イングランドと2戦交えた。
初戦は、9月24日 花園ラグビー場。
結果は、日本19-27イングランド。
第2戦は秩父宮ラグビー場。
結果は、日本3-6イングランド。
特に、「9月28日」秩父宮の第2戦、
スタンドに入りきれないファンが
タッチライン際まで溢れ出て観戦していたほどの異様な熱気の中、
試合前のロッカーで行われた大西氏の
「水杯」(みずさかずき)のエピソードは伝説だ。
(このエピソードについてはここでは省略。以前紹介させていただいた、当事者の1人、元日本代表、現伏見工業ラグビー部総監督、山口良治先生涙する・・・を参照されたい)
そんな中、この日本ラグビー界の伝説を目の当たりにし、
少し別の角度から「世界を知った」1人のラガーマンがいた。
「天理高校ラグビー部主将 丹生谷直志選手」だ。
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松山聖陵グラウンドで選手たち走る姿に目を配る丹生谷監督。
遠くを見つめながら一言、
「テストマッチが終わって選手たちは、うちの学校に来たんですよ」
もう40年近く前の話だ。
丹生谷監督は愛媛の重信中学校を卒業後、
奈良の天理高校に進学しラグビーに出会った。
花園ラグビー場での初戦を戦い終えた
「イングランド代表」と「日本代表」の選手たちが向かった先。
それは、奈良県の「天理大学」だったという。
大西鐡之祐監督が奈良県出身だったためもあろうが、
高校・大学と日本のラグビー界をリードし、
すでに国際交流も盛んに行っていたことも関係あるようだ。
そして学校では、懇親会が始まった。
試合後、お互いの健闘を讃え合うのは今も昔も「ノーサイドの精神」。
パーティは華やかに、賑やかに進んでいく・・・はずだった。
ところが、この日、会場で「ウエイター係」に勤しんでいた丹生谷選手は
目の前の光景に驚きを隠せなかったという。
「ジャパンは試合で、全精力を使い果たしたんでしょうね。
選手たちはもうパーティの途中から椅子に座って
ぐったりしていました。
中には部屋に戻ってしまった選手もいたはずですよ」
さらに続く。
「逆にイングランドの選手たちは、どんどん食べて飲んで・・・
大騒ぎですよ。
で、途中選手たちが私たちに何を聞いてきたか!
『ここにプールはないのか?』
で、場所を教えたら、選手がそこで泳ぎ始めたんです、
バシャバシャと!」
そして翌朝、もうイングランドの選手たちはケロッとして
移動していきましたよ」
ラグビー母国の「威厳」と「解放」を目の当たりにした丹生谷選手。
「高校ラグビー日本一男」が
世界のスケールの違いを肌で感じた1日だった。
ところが、その4日後の9月28日。
日本はその荒くれ男達をノートライに封じた。
日本のタックルは突き刺さり、
1度たりともゴールラインをまたぐことを許さなかった。
この時のことを、日本代表7番山口良治選手はこう表現している。
「いいかい高橋君、レフリーの笛が鳴った。
そうしたらね、終わってたんだよ・・・」
「集中の極み」とはこういうことなのか。
体の小さな日本人が、体の大きな外国人を倒すには
日本独自の「スタイル」を確立しなければならない。
大西鐡之祐氏の元、80分間はあっという間に過ぎた。
そして当時の丹生谷選手は知る。
どんなに劣勢でも「スタイル」=組織の意識統一があれば
戦えることを―
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世界と日本と自分自身のラグビー観に大きな影響を与えたあの日から
38年後の2009年。
松山聖陵ラグビー部を指導して31年。
監督として10年目の節目を迎えた丹生谷監督。
自分たちの「スタイル」を貫くのみ―
1回戦だろうが決勝だろうが、何も変わらない。変える必要もない。
それが自分たちの「信じる」形ならば・・・。
丹生谷監督は決勝戦を前にこう語る。
「普段から、人生の目標はトップに立つことだということを
露骨に言い過ぎている所もあるんですけど、
やはり頂点に立つためには、
それだけの厳しさ苦しさをもって接しなければならない」
そして―
「もし負けたときには、相手がそれ以上のことやったと・・・」
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山下レフリーが一拍おいて、大きく息を吸い込んだ。
そして秋の西日に包まれる球技場の芝に
ノーサイドの笛が鳴り響いた。
三島41-19松山聖陵
丹生谷監督の戦いが終わった。
チームは3年計画の3年目だった。