高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2008年4月30日(水)

あきらめたらアカン



~幻の100マイル投手の挑戦~

ずばり聞きたかった。
本人の口から聞きたかった。

――もう一度NPBに戻りたい思いとは何か。

「やり残していることというか・・・
今さら・・・とよく言われるんですけどね、
今年37になるんですけど」

その大男はゆっくりと語り始めた。
四国九州アイランドリーグ、長崎セインツのピッチャー
前田勝宏 36歳。
そう、あの「元西武の前田」だ。

ストライキの影響で人気が下降気味だったメジャーリーグを
あの野茂英雄がトルネード旋風で救ったのは1995年。
この年のオフ、日本球界で突然メジャーリーグ挑戦を直訴し、
物議をかもしたのがこの前田だ。
短い髪を金髪に染めた速球投手といえば
覚えている方も少なくないだろう。

その前田が、目の前で投げている。

4月27日、八幡浜・大洲地区運動公園。
GWで快晴、しかも南予地区での開幕戦、
さらに愛媛マンダリンパイレーツと長崎セインツの初対決とあって
スタジアムは満員だ。
ざっと1900人。地方球場では異例の観客数である。

そして8回、その時が来た。
身長188センチ、98キロがマウンドに立つ。
背番号41が小さく見える。


速い・・・


    *      *       *


今から13年前、前田は160キロを投げた。
ハワイでの参考記録だったが
「幻の日本人100マイル投手」として注目された。

前田の西武時代3年間の成績は芳しくない。
その後、野茂に続く日本人としてNYヤンキースに入団。
傘下のマイナーリーグで1A、2A、3Aとステップを踏んだが
結局5年間の在籍中にメジャー昇格は果たせなかった。


課題は「制球難」


2001年には中日ドラゴンズに入団。日本球界復帰を果たした。
しかし1軍登板は無く、戦力外通告はその年のオフ。
それでも前田は歩みを止めなかった。

2002年 台湾・興農ブルズ
2003年 イタリア・ボローニャ
2004年 中国・上海ゴールデンイーグルス

野球ができるなら、どこへでも行った。
本当にどこへでも―

2005年 関西野球専門学校・アスピア学園
2006年~07年 岩手21赤べこ野球軍団

そして今年、長崎セインツに入団した。

「この子らと一緒に、僕ももう1回やりたいという思いです。
やっぱりあきらめたらアカンと思うし、
可能性は低いかも分からんけど
やってる限りチャンスはあると思うので
これからもやろうと思ってます」

  *     *     *

パイレーツ打線相手に、この日前田は
クローザーとして8回からマウンドに上がった。

そして打者7人に対し、4者連続三振を含め1安打無失点。
その存在を強烈にアピールした。

しかも特筆すべきはその内容。
丁寧に丁寧に低めを突きカウントで追い込むと、
ウイニングショットは剛速球かと思いきや、
さらにコーナーギリギリを突くスライダー。

しかもその精度たるや、
上位争いを繰り広げる愛媛ベンチを黙らせるには
十分すぎる内容だった。

そこには、かつて「制球難」に苦しんだ面影は微塵も無く
「なにがなんでも上に戻りたい」という
強烈なメッセージが込められていた。

「僕が先頭に立って、あのようなピッチングを見せていかないと、
 この子ら強くなっていかないので、
 そういうプレッシャーというか、やりがいというのがあって」

前田は続ける。


「僕がやることによってチームが強くなっていくと思うんで、
        
 毎日毎日、1球1球、必死でやってます」
2008年4月21日(月)

「気付くために・・・」





・「何を」「誰に」「売るか」。
・「誰に」「何を」「売るか」。

文字の上ではほとんど同じに見えるこの2つの文章。
しかし伝えていることは「決定的に」違う・・・
そんな言葉のひとつにこういうのがありますよね。

それにしても、一体どちらが「売れる」のでしょうか?

それはさておき、本題です。
では「売るか」の所を「見てもらうか」に変えたらどうでしょう。

・「何を」「誰に」「見てもらうか」
・「誰に」「何を」「見てもらうか」

「それはヒロ・ヨッシーさん!
うちの商品は最高よ。モノが良ければ
客は自然についてくるもんよ。」

「いえ、ヒロ・ヨッシーさん!
商品開発では、まずターゲットを明確にして、
その層へ最も訴求効果のあるものは何かを考えるのが妥当よ。」

上が理想、下が現実。
その中間を行ったり来たりしながら
「理念」を守るためにも試行錯誤するのが普通ですが、
難しいんでしょうね。

でもその試行錯誤の積み重ねが
ピタリと1点に凝縮する時もあるんですね。
それを世に示したのが、4月12日(土)の
坊っちゃんスタジアムでした。

愛媛マンダリンパイレーツのホーム開幕戦。
天候にも恵まれ、入場者数は1万288人!
ついに大台を突破しました。
びっしり埋まったスタンドはオレンジ色に染まり、
歓声は、春の十五万石の城下町に響き渡りました。

もちろんそこには緻密な計算もあったはず。
この日は土曜日、午後2時プレーボール。
道後温泉まつりは、1週間前。
愛媛FCの試合無し日。
高校野球の決勝戦は翌日・・・

見事な開催日設定ですよね。
初めて観戦に来た方も多かった様ですし。

* * *


それにしても、私たちの周りには「気付かないだけ」で、
結構いいモノがあったりしますよね。

どんな分野でも、心当たりありますよね。
そんなモノに出会うと嬉しくなりますよね。

でも、これまでどうやって「気付いて」きました?

自分で発見してきました?
本ですか?テレビですか?新聞ですか?
それとも人に教えてもらってきました?
今の時代、情報はどんどん手に入りますよね。

でも、本当にそれがいいモノかどうかは、
どうやって判断しますか?

そして最後に、「買おう」という決断は
どうやってしますか?

手にして、目にして、触れて・・・
やはり大切なのは「現場」だと思います。
なぜなら「現場」には
その判断を助ける様々な情報が転がっています。


一度、足を運んでみませんか。


なぜそれが存在し、先人たちにどんな影響を与えているのか。
そしてそれが「いいモノ」なのか見極めるために。


愛媛に存在する「2つ目」のスタジアムにも・・・

2008年4月 5日(土)

2枚目の色紙




「もう10年経ってるんですよね」

そうつぶやき、大男は目を細めた。
初めて会ったのは宇和島市内のトレーニングジム。

鈍い光を放つ鉄の棒や円盤。
それらが束になって男を苦しめていた。
そして男の顔に赤みが増すたびに、
筋肉は本来あるべき姿に形を整えていった。

「シンゴ!」

オーナー吉見一弘さんの声がジムに響いた。

「はじめまして」

そして男は、そのジムの名のとおり、
日々、自らのステージを「ランクアップ」させ、10年が過ぎた。

松本慎吾。

レスリングのアジア王者の名前だ。
グレコローマンスタイル。上半身だけで組む競技だ。
84キロ級。
なにか名前まで筋肉で出来ているようだ。

去年12月の全日本選手権で優勝。
いつもの年末だ。
なにしろ9回も続くと驚きもなくなる。
王貞治がホームラン王であるように、
長嶋茂雄がミスターであるように。
松本慎吾は自分の役割を果たした。

ただ・・・今回はその優勝が脇役に回っていた。
松本の優勝が新しい命の息吹に華を添えた。

長女・涼那ちゃんの誕生だった。

「練習終わって家に帰り、あどけない顔を見ると癒されますよね」


2004年。アテネオリンピック。
松本は7位入賞を果たした。
しかし満足はしていなかった。
30歳で迎える北京大会。
松本はそこで集大成をぶつける決意を固めていた。

その後の世界選手権でも8位、9位と結果を出した。
順調だった。それまでは・・・

去年の世界選手権で松本は1回戦で敗れた。
北京行きの決定は先延ばしになった。

「集中しきれてなかったですね」


しかし半年後の2008年3月。
韓国で行われたアジア選手権で
松本は決勝進出確定時点で出場枠を確保。
事実上の北京行き決定に、優勝という結果で華を添えた。

「そうですね、家族からエネルギーをもらいました。」

松本は照れずにしっかりとした口調で答えた。

「今回は試合前から、優勝して北京行きを決めるイメージを
 頭にしっかりと思い描いていましたから。 
 集中しきっていましたね。」

1回戦敗退の屈辱から半年遅れの北京行き決定だった。

8月のオリンピック開幕まで128日。
目標を色紙にぶつけてもらった。

太いマジックを右手に書き始めた。
そして、筆が止まった―

「書き直してもいいですか・・・」

見ると「北京」、「金」という文字が
2つ並んだところでストップしていた。

松本に2枚目の真っ白な色紙を渡した。
ほどなくして、書きあがった。
それは、今この瞬間思いついた、初めて書く言葉だという。

「家族の前で、金メダル」

松本がいよいよ本気になってきた。
その目はまっすぐ、微塵の揺れも無い。

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