高橋浩由の「スポーツ素敵に隠し味」

2008年1月28日(月)

日本一への逆算  ~センバツ決定!今治西~


「今年は打ってもらわんとな~。去年は失点さえしなければ良かったけど・・・」

冬晴れの中、寒風吹きすさぶ今治西高校グランド。
快音というよりは、少々痛さも覚える金属音を響かせながら
今西ナインはきのう、去年秋以降封印してきた
マシン相手のフリーバッティングを解禁した。

その様子をバックネット裏から見ていた一人のファンが期待を込めてつぶやいた。

投打の大黒柱だった「熊代」がいなくなった今治西。
去年以上の失点は覚悟しなければならないのは仕方が無い。
その分、「打っていこう」というのが今年の今治西だ。

去年秋は四国大会ベスト4。
公式戦8試合のチーム打率は3割1分4厘。1試合平均得点は5.25点。
バットは振れていた。
去年以上の「打線」を自負している。
そして、センバツ行きが決定したこの週末日曜日から
本格的な打撃練習も始まった。

しかし実際にグラウンドを訪れてみて感じるのは、
水安洸太投手の存在感の大きさだ。
キャッチボールの時のことだ。
塁間以上の距離をビュンビュン投げ込む水安に大野監督が歩み寄った。

そしてキャッチボールの相手が変わり、距離は塁間程度に縮められた。
あまりの肩の仕上がりの早さに、大野監督も待ったをかけた。(ように見えた)

そしてブルペンに入った。いや、この冬場も変わらずずっと入っているらしい。
130キロは裕に超えている。(ように見える)

キャッチャーは立たせたままだが、その距離が短く感じる。
その水安は言う。

「去年は調整が少し遅れました。今年は早めに調整・・・いえ、
 新チームスタートが遅れた夏の分を、冬場に取り返さないと。
 だからずっとボールは握り、体力アップよりも、
技術的なレベルアップに取り組んできました。
逆にこれから走りこんでいこうと思ってます。」

ピッチングが終わり、バックネット裏に移動すると
先程のファンがいた。

「それにしても去年とはメニューが違う。
毎年毎年、メニューを変えてますね、大野さんは。考えてますよ、あの人は・・・」

熊代のいた去年のチーム。
熊代のいない新チーム。

チーム作りについて大野監督に尋ねた。

「毎日、1日の練習メニューを決めるのも考えながらですので、
 1日の練習が終わったら、次の練習が始まるまでの間に、
 次はどういう練習をやろうかとか、
 どういう風に選手に声をかけてやったらいいかとか、
 もう、そういうことばかり考えながらやっています」

監督は少し笑みを浮かべ、そしてさらに続けた。

「僕はまだ指導者としては駆け出しですので、そんなによく分かりませんけど
 ただ、『選手に指導をする』というのではなくて、
 『選手と一緒になって取り組んでいく』、
そういう気持ちはいつも大事にしながら
選手の感覚と指導者の感覚がズレてしまわないように、
出来る限り選手に近い目線で毎日の活動をしていけるように心がけていくことが、
 僕自身、選手にしてやれることだと、
そう心掛けてやっています」

センバツまで54日。
この目の前に横たわる時間にどう取り組んでいくか。
去年春、日本一を掲げて臨んだセンバツ2回戦で
優勝した「常葉菊川」に0-10で大敗した経験。
準備不足を実感した経験は、今回何よりの財産だ。


「この練習が出来ないなら、目標を下げろっ!」
グラウンドに時折響くこの言葉。

目標を下げるなら、そんな練習でも構わない・・・そういう論法だ。

しかし「目標は日本一」、そうチーム全員で決めた以上、
それを達成するためにやるべきことは自ずと決まる。

ボールを使ったメニューを精力的に行う―
センバツ開幕からの逆算によって弾き出された
『オフの無い』オフシーズンの練習メニュー。
全ては春夏通算20回目の甲子園で、優勝するためだ。

「選手たちが日本一の練習をしてくれてますから・・・」

後に続く言葉の「答え合わせ」が待ち遠しい。
2008年1月21日(月)

STRONG WILL ~揺るぎない意思~


「自分たちの枠を破るためにも、
   土佐さんや、君原選手のように
      無理、無駄をこれからしてもらいたい」

今月15日、新体制でのスタートを切ったJ3年目の愛媛FC。
4年目の望月一仁監督が「勝負の年」と口にするシーズン初日のミーティングで
引き合いに出したのは、2人のマラソンランナーの名前だった。

去年の世界陸上でも、後半の驚異的な粘りで銅メダルに輝き、
北京オリンピックの切符をまさにもぎ取った「土佐礼子選手」。
その走りは、「STRONG WILL」=揺るぎない意思という
今季のチームスローガンをまさに体現していると望月監督は感じていたのだろう。

さて、「キミハラ」だ・・・。

「土佐さんや・・・」のあとに続いたその名前。
それは、昭和の名ランナー「君原健二」だった。

1960年~70年代に活躍した君原は、
オリンピックに3度出場し、いずれも10位以内に入るなど
日本男子マラソン界の第一次黄金時代を築いた一人である。

しかし当時、「一仁少年」の心を掴んでだのは、
何もその華やかな結果からだけではないだろう。


1964年の東京オリンピックで君原は、
円谷、寺沢とともに日本代表として出場。
「最もメダルに近い男」としてスタートラインに立った。

しかし、結果は8位。プレッシャーに押し潰され、惨敗。
66年にボストンマラソンで優勝して立ち直るまでに、2年の月日が流れていた。

そして68年、円谷は自殺―。

しかしその年のメキシコオリンピックで君原は銀メダルを獲得。
東京五輪の失敗、ライバルの死という衝撃を乗り越えた。

その君原の練習方法のエピソードがある。
チームメイトと練習する時は必ずアウトコースを走ったという。
するとトラック1周で約6m長くなり、10周で60m、100周で600m長くなる。
それを同じタイムで走る練習を重ねれば
実際のレースでは600mリードできる計算だ。

日々のちょっとした意識改革と「気持ちの強さ」こそが
君原を支え、またファンを魅了したのだろう。
「一仁少年」も、その1人だったに違いない。

「ストロング ウイル」=揺るぎない意思

・・・ではあるが、「あとは気持ちだけ」ともとれる。

昨シーズンの練習初日、望月監督は言った。

「第1クールは我慢です。第3クールぐらいまでかかるかもしれない・・・」

しかしきょうの望月監督の言葉には明らかに圧が違っていた。

「鹿児島キャンプのJ1との練習試合で、判断のスピードをあげていきたい。
 で、相手に合わすのではなく、自分たちのやりたいサッカーをやりたい。
 理想はJ2、1年目のようにスタートから勢いに乗っていければと思う」

勝負の3年目、愛媛FCに何か・・・「雰囲気」を感じる。
2008年1月21日(月)

次世代への決意  ~梶本達哉投手~


「僕の所は震度4でしたが、阪神大震災のことは良く覚えています」

「日本のへそ」と呼ばれる兵庫県西脇市出身の梶本達哉投手。
当時小学2年生だった達哉少年にとっても忘れられない恐怖体験だった。

そんな中、被災地を勇気づけようと一丸となっていたのがオリックス・ブルーウエーブ。
「特にイチローさんが好きでした」。
地元チームの奮闘振りは、達哉少年にも輝いて見えたという。

あれから12年・・・。
四国アイランドリーグの最多勝利投手に輝いた
愛媛マンダリンパイレーツの梶本投手は
去年11月のドラフト会議、育成選手で指名を受けた。

手を挙げたのは、大好きな「オリックス」だった。

「地元のチームで、思い入れはあります。ずっと応援していたチームです。」

NPBの制度上、「大学休学中」の者は「ドラフト対象外」と伝えられ
落ち込んだこともあったという。
しかしドラフト直前、事態は一転、「特例」として対象選手に認定され、
指名に至った。

刺激的な1年だった。
特に浦川大輔投手のマウンドさばきや心意気には目を奪われた。
そして同部屋だった松坂恭平選手からは、兄譲りの体のメンテナンス法など
一流選手の考え方も学んだ。

チームで1人だけの指名に、梶本は「第2の故郷」への恩返しを胸に期す。
「自分が活躍することでパイレーツ関係者に勇気を与えたい」
原石が真の輝きを放ち始めている。

現在、神戸で新人合同自主トレに励む梶本。
今度は自分のピッチングで神戸を元気にしたい―

「1.17」のきょう、彼の決意は確信に昇華する。

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