
バンクーバーオリンピック スノーボード男子ハーフパイプ。
青野選手は9位に終わった。
決勝では「絶対王者」ショーンホワイトを追って
全員が束になってかかっていったような構図になり、
メダル候補といわれる選手たちが
大技「ダブルコーク」にチャレンジしては、
成功し、そして失敗していった。
そこでは「出来た」か「出来ない」かだけが重要なことであり
ジャッジがつける得点による「順位」など
選手たちにはあまり意味がないようにも見えた。
そしてそんな様子を眺めていると
なにか小学生の頃の「度胸試し」を思い出した。
体育館に忍び込み、ステージの緞帳のレール上から
下に敷いたマットの上に飛び降りたり、
ブランコを思いっきりこいで勢いをつけ
ジャンプして柵を飛び越えたり、尻を打ったり、
公園の山の上から自転車で駆け下りたり、
橋の上から運河に飛び降りてみたり・・・
周りの評価などという概念はそこには無く、
仲間になれたか、なれないか・・・
それが全てだった時代を思い出した。
でも青野選手のジャンプが
「5F建てのビルと同じ高さ」だと分かった時、
懐かしさなどは吹き飛んだ。
それはさておき「最後の着地」。
何度も思い出しても残念なシーンだが、
着地のミスは、
直前のエアーに何かあるということで、
そのエアーで何かあるということは、
その直前のアプローチの段階で問題が生じていたと予想される。
さらにそのアプローチに影響を及ぼしていたのは
直前のジャンプの着地だろう。
どんどん遡っていくと、結局「スタート地点」に戻ってしまうが、
結局、ハーフパイプ競技の真髄は「トランジッション」、
技と技の「つなぎ目」の精度にあるのだろう。
「跳んで見なけりゃ分からない」
「出たとこ勝負や~」
そんな感覚とは無縁の、
明確な因果関係に基づいた世界なのではないか。
青野選手にこう尋ねたことがある。
「フィギュアスケートのジャンプのように
ジャンプの瞬間に、3回転を2回転に変更したりすることもあるの?」
青野選手の答えは「ない」。
「飛び出す時には上半身の先行動作が必要で、
予定回転数に合わせて準備して飛び出します。
だから、例えば空中であまり高さが無いからといって
半分だけ回転を減らそうとすると、
もう勢いが付いているので着地の失敗につながります」
で、「最後の着地」。
決勝2本目、上から予定通りのジャンプをこなし
たどり着いた最後の「一発」。
当然3回転を狙って空中に飛び出したのだろう。
しかし高さが足りず、
その分パイプの底まで飛び続ける必要が生じ、
いざ着地すると、今度は板に体重を乗せるまでの時間があまりなく、
先に雪面にエッジを取られてしまった―
と推測するがどうだろうか。
何はともあれ、
「スノーボードをたくさんの人に知ってほしい。
楽しさをもっと伝えたい」
という青野選手の思いは今回のオリンピックを通じ
十分に伝わったのではないだろうか。
「ダブルコーク」を入れなくても
「マックツイスト」を入れなくても
アクロス重信の天井さえもぶち抜くほど
回転軸のぶれない「高さ」のあるジャンプで
堂々と世界と渡り合う青野選手の勇姿は
私たちの心にしっかりと刻まれている。
慌てず、騒がず、自分のスタイルを見据える19歳の青年。
ふわりと浮かんだビルの5Fの高さから見つめていたのは
ライトアップされた美しく悩ましいあの「着地点」だけではない。
世界はもう3日前の「あの日」から
次のオリンピックに向けすでに加速し始めているのだから。

「お帰りなさい」20(日)松山空港
「まずはみんなが、いい環境を作ってあげる。
彼にとっても居心地にいい所にするというのが
彼にとってのいいことだと思う」
(2010年1月15日 愛媛FC 初練習後のインタビューで)
(世界を相手にしてきた福田健二選手)
愛媛FC、今シーズン注目度№1の「福田健二」選手。
小生が、イングランド・プレミアリーガーの大型ボランチ
「MFドウグラス・リナルディ選手」に対しての
コメントを求めるとこう一言。
『大いに期待してます』・・・的なコメントを予想していた小生でしたが
浅かったと反省―
「結果」を出すことで世界と渡り合ってきた「ストライカー」福田選手。
「新加入選手」が活躍するために必要なことは
「受け入れ側」の体制作り、周りが「お膳立て」をする意識。
それが結果的に自分の良さを引き出すことに繋がっていくと説く。
それはおそらく「サッカーだけの話」ではない。
新年最初のお題は「締め切り」。
「締め切り」という言葉を聞いて―
胃が痛くなる人もいるかもしれません。
「かえってヤル気が出ます」っていう人もいるでしょう。
いずれにしても、人が何かを成す時には、
全て「締め切り」から始まるのではないかと思うのです。
「締め切り」が決まると人間は大きく2種類に分かれますね。
・計画的に事を進める人
・ギリギリになって一気にやる人
どちらがいいのか。永遠のテーマです。
我が家を襲った今年最初の「締め切り」は、まず1月8日(金)でした。
小学校の3学期の登校日・・・と同時に、
「宿題提出」の締め切り日です。
1年生と3年生の娘は、年に1度の夜更かしを満喫しながら
「紅白で びっくりしたよ メガ幸子」
・・・などと、一句詠んでいた頃までは
気持ちにも余裕があったようですが・・・
2010年突入後は「第2のカウントダウン」が始まったようで
表情も次第に険しさを増していきました。
ただ、人を巻き込む技にも長けていた2人は
結局、何事もなかったかのように「締め切り日」をクリアしました。
でも、その最後の追い込みこそ
ヒトの可能性を広げてくれる最たるものですよね。
例えば「高校野球」のように―
新チームがスタートする夏。
秋の県大会という「締め切り」に向かって
高校球児たちは、一度「死にます」。
というと大袈裟かもしれませんが、
自分の限界を越え、殻を破り、可能性に気づき、「強く」なります。
しかし本人たちは知っているんですね。
負けても、まだ先があることを―
春の県大会、地区大会、そして「春のセンバツ」は通過点であることを。
「夏の県大会」。
やはりそれが高校球児としての1年間の「締め切り」でしょう。
春から夏の成長は、秋から冬以上です。
それは「技術の追求」のみに没頭していた者の意識が、
突然「周囲の存在」に気づき「日々の意味」を問い始めるからです。
やはり最後の追い込みで「技術」に「精神」が追いつくと
「伸びる」のでしょうね。
では、締め切りのスパンが「4年間」だったら―
「バンクーバーオリンピック」まであと1ヶ月です。
注目は、スノーボードハーフパイプの「青野 令」選手です。
トリノ五輪には出場していません。
しかし当時テレビの前では、もう4年後の戦いが始まっていました。
その成長は順調でした。
高校1年の時、ワールドカップで種目別の年間王者になり、
クリスタルトロフィーを手にしました。
2年後の今年1月には韓国での世界選手権で初優勝。
そして2度目のワールドカップ年間王者にも輝き、
バンクーバーでの「メダル候補筆頭」に躍り出ました。
ところが―
去年8月、ニュージーランドで行われた
「オリンピックシーズン」のワールドカップ開幕戦。
優勝は、アメリカの「ショーン・ホワイト」。
見たこともないような縦回転の大技を成功させました。
青野選手は、風にあおられ転倒。
結果は散々でしたが自分のこと以上に
世界の変貌ぶりは衝撃的だったことでしょう。
(優勝はS.ホワイト 青野選手は7位)
「ダブル・コーク」=縦2回転の大技
オリンピックイヤーに入り、突然目の前に現れた大きな壁。
世界のレベルは一気に上がりました。
「オリンピック前になると、
こうやってみんな技のレベルを上げてくるんだなって」
青野選手の口からこぼれた一言に、私たちも現実を理解しました。
しかしその時点でオリンピックまで半年。
それだけの時間を残して大技を披露してしまったことが
「ショーン・ホワイト」に吉とでるか、凶とでるか。
現にアメリカの有力選手の1人が
「ダブル・コーク」の練習中に頭を強打し重体になったように
なりふり構わぬ猛追劇が世界各地で行われていることは
想像に難くありません。
そして、青野令選手。
「シーズンオフ無し」アクロス重信をベースに
現在は今季3度目の海外合宿で新たな技の開発に取り組む中、
ここから何を起こすのでしょうか。
「締め切り」まであと1ヶ月―
「勝つために、最後の最後まで考え抜く覚悟」があるかどうか。
それが、これまでの華やかな戦績を
「栄光への複線」に昇華させるために必要なことであり
自分の滑りをすることに繋がるのかもしれませんね。

(2010年 年頭に一筆)
「未来の事を口にするのはリスキーだ。
しかしそれが
今はエネルギーになっているし、
やれる自信もある」
愛媛FC バルバリッチ監督 2009年12月
2010年の目標を尋ねた時のバルバリッチ監督。
来日3ヶ月目の指揮官は
言葉を選びつつ慎重に、しかし胸に秘めた信念を口にしてくれた。
クロアチア出身で旧ユーゴ代表、あのオシム監督の教え子でもある。
「言葉」が宙をさまようことはない。
多民族国家ゆえに古代から内戦、紛争が続いてきたバルカン半島。
トルコ、ギリシア、アルバニア、ブルガリア、
さらに旧ユーゴスラビアの
マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、
そしてボスニア・ヘルツェゴビナ・・・。
92年に勃発したボスニア紛争が終結したのは95年とついこの前。
紛争の末に独立を宣言したコソボを巡っては
未だ国際的にも不安定な状況だ。
そんな状況で日々と向き合う中、
大切なのは「その日」「その時」「その瞬間」。
その積み重ねが「あす」になるのだろう。
刻一刻と変わっていく社会情勢の中で、自分はどう動くべきなのか。
愛する者たちを守るためにはどうすればいいのか。
「根拠なき希望」は時間の浪費なのかもしれない。
フットボールも同じか。
「今」の積み重ねが「あす」の前進につながり、
それがいつしか「劇的な変化」を生む。
バルバリッチ監督はそれを知る。
(空 希望の宿る場所)
来日直後、中盤でボールを簡単に奪われる様子に
バルバリッチ監督は
「戦うために最も大切なことがおろそかになっている」と指摘した。
「武士」に興味があるという。
全く初めて訪れた国、極東の「日本」。
これまでの人生で接点はほぼ皆無に等しい。
ただ「戦い」に臨む「武士」の姿勢はバルバリッチの心を捉えていた。
「侍スピリッツ」に触れることを楽しみにバルバリッチは来日した。
それが失望に変わったかどうかは定かではない。
しかしフットボールがその国を映し出す鏡であるならば
この国の若者たちを束ねるのは
容易でないことくらいは察知しただろう。
(心をひとつに 愛媛FCイレブン 写真左から2番目がバルバリッチ監督)
「サッカーはサポーターのためにやっているものだ」
バルバリッチ監督はこう言い切る。
「私たちが勝利で得る喜びよりも、
サポーターが喜ぶことで得られる喜びの方がはるかに大きい」
そのサポーターに「借りを作った」と何度も語ったバルバリッチ監督。
シーズン終了後、冬の夕方ピッチ上にて30分間のインタビュー。
しかし2010シーズンを見つめるその表情は
西日のせいか晴れやかに見えた。
「戦う」とは何か―
2010年
オシムの教え子が、
愛媛でいよいよ刀を抜く―
心に、熱い思いみたいなものが
試合前はあって・・・
三洋電機ワイルドナイツ 山本 貢選手
(2009年12月6日 ニンジニアスタジアム)
ラグビートップリーグ2年ぶり4回目の愛媛開催が「凱旋試合」となった
新田高校出身、三洋電機の「山本 貢」選手。
元日本代表、トップリーグ6年目の28歳は
今シーズン、チームの全勝、首位独走に大きく貢献している。
試合後、久しぶりの愛媛でのプレーについて尋ねると
こう一言答えてくれた。
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丁度10年前の「99年」、
山本は新田ラグビー部のキャプテンに就任すると
フッカーとして「高校日本代表候補」にも選出。
全国高校ラグビー愛媛県大会では
決勝で河野晴吾キャプテン(後に明治大)率いる松山聖陵を
32対0で破りチームの「3連覇」に貢献した。
そして「花園」。
1回戦では「富山第一」を19-15で破り初戦突破。
山本も1トライを決め、富山の猛追を振り
新田の「花園通算30勝目」に貢献した。
ところが・・・
山本はこの試合で「右足首を捻挫」。
しかし2回戦の相手は全国屈指の強豪「国学院久我山」。
山本は翌日、大阪市内の河川敷グラウンドで行われた練習中も
歩くのがやっとの状態だったが、取材陣に一言。
「強い相手と戦えるのは楽しいから」
ややうつむき加減だったが、その口元には笑みが浮かんでいた。
そして翌日の99年12月30日。
山本の姿は花園の芝の上にあった。
「痛いかゆいを全く言わない男です」
亀岡政幸監督(当時)はその心意気の前に
逸材の「将来」よりも「目の前の一戦」を優先した。
座薬と痛み止めを打っても痛いものは痛い。
しかし60分間、前に出続けた「背番号2」を
後輩たちはしっかりと目に焼きつけ、ノーサイドの笛を聞いた。
結果は、「新田0-70国学院久我山」
深く鮮やかな緑の芝の上に落とした「大粒の涙」―
しかし山本はその「意味」を、翌年から「実行」に移した。
関東学院大学に進み、才能が一気に開花すると、
2000年から関東大学リーグ戦を全勝優勝で4連覇。
大学選手権では4年間で3度学生日本一に輝くと、
三洋電機でトップリーガーとなり日本代表にも選ばれた。
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そして三洋電機6年目の今年、初冬の愛媛に凱旋。
優勝へ真っ直ぐ突き進むチームの一員として
慣れ親しんだ芝の臭いに熱く燃えた。
泥臭くクボタの選手に絡み、倒し、
ブレイクダウンで圧倒。
そして前半39分
ドライビングモールを生かして「1トライ」を決めた。
「みんなのお陰で取れたトライなんで、みんなに感謝したいと思います」
赤いジャージに刻まれたあの日と同じ背番号「2」は、
西日を受けて誇らしげに輝いていた。
「
(両親と喜びの写真撮影 秋山拓巳投手)
OBの『村山さん』みたいに先発でグイグイ押せる
スケールの大きな投手になってほしいね」
2009年11月27日 阪神 山本宣史スカウト
今年10月のドラフト会議で西条・秋山拓巳投手を4位指名した阪神。
この日はJR伊予西条駅にほど近い、西条国際ホテルで仮契約を結んだ。
約40分間行われた交渉の後、秋山投手は会見で
「高校時代にやり残したことがあったので、
それを今度はプロの世界でぶつけたい」と
甲子園での登板が待ちきれない様子。
またドラフト当日は「4位指名」によって
秋山投手の機嫌を損ねてしまったが、
この日山本宣史スカウトは
「将来は先発ローテーションの柱として頑張ってもらいたい」
と明言するとともに、阪神に身を置くものとしては最高評価に値する
「村山」の名を用いて期待の大きさを表現した。
さらに・・・
「送りバントも自信あるって、本人言ってたよ」
阪神 佐野仙好西日本統括スカウト
Qチャンスで秋山君に回って来たらベンチはどうするでしょうか?
打撃にも非凡な才能を併せ持つ秋山投手だけに気になるところ。
この私の質問に、今回同席された「佐野仙好西日本統括スカウト」は
上のように述べ、
セ・リーグ「先発完投型投手」の必須科目「バント」も
問題なしと見ている。
秋山は「チャンスで代打」のいらない投手として
「虎のエース」としての第1関門をまずは軽々クリアしたようだ。
選手は十分力を発揮し、
自分たちのラグビーをすることができた。
選手を誇りに思う。
松山聖陵 丹生谷直志監督(61)
(2009年11月23日)
「第89回全国高校ラグビー愛媛県大会決勝」は
三島の3年ぶり2度目の優勝で幕を閉じた。
しかし敗れた松山聖陵もスタンドの応援団を大いに沸かせた。
それはなぜか―。
「スタイル」を貫く姿勢があったからかもしれない。
持ち味、定番、オリジナリティ・・・などとも言い換えられるが、
ここでは「必殺技」の方がぴったりくるだろうか。
決勝戦。
前半を終えて、三島24-0松山聖陵。
4トライ差以上の差がついていた。
しかも三島の練りに練られた試合運びに翻弄され
松山聖陵の見せ場はほとんどなかった。
しかし丹生谷監督に迷いはなかった。
むしろこの点差をチャンスと捉えていた。
さかのぼること1週間前の準決勝、野村戦。
松山聖陵は前半24-5とリードしたことで油断し、
後半野村の猛追撃に遭い、結局36-31の1トライ差。
薄氷の勝利で学んだことは少なくなった。
そして決勝戦の後半。
①松山聖陵はまず、開始4分、
10番江戸~12番田中キャプテン~15番城戸
BKがつないでトライ。
②後半12分にには、10番江戸~12番田中キャプテン~15番城戸、
そして最後は11番寺田と再びBKがつないでトライ。
③さらに後半16分には
ゴール前のラインアウトモールから
最後は13番小川が左サイドを突いてトライ。
これで松山聖陵は一気に10点差=2トライ差に詰め寄った。
そしてこれらのトライは全て、何度も何度も練習してきた
松山聖陵の「必殺技」。
自分たちはもちろん、スタンドのファンも、
さらには相手チームも最も警戒していた作戦だった。
味方に「期待」され、相手に「警戒」され
それでも「成功させる」ことの美しさ―。
そこには「絶対の自信」と「強烈な意識」と
そして「無意識への昇華」が伴って初めて完遂できる輝きがある。
戦前、丹生谷監督に尋ねた。
「自分たちの良さを出す」
「相手の良さを消す」
決勝戦ではどちらですか?
「勝つことも大事だが、もっと大切なのは人間形成。
仲間とともに、自分たちの信じるスタイルを貫きたい」
********************************
ラグビーでは競技の特性上、アタック、ディフェンスの選択肢が
限られることも多い。
道具を持たず、己の肉体を武器として投げ出すためだ。
ポジション別の役割はともかく、
集まった15人の肉体的特性を最大限に生かそうとすれば
やはりFW主導型。BK主導型。キック多様型など
戦術は自ずと決まってくる性質がある。
それはメイジの「前へ」だったり、
東芝府中の「PからGO」だったり、
神戸製鋼の「フラットライン」だったり。
さらには「大西鐡之祐」氏率いるワセダの
「展開、接近、連続」だったりする。
********************************
「大西鐡之祐」氏(故人)は
元早稲田大学ラグビー部監督で元日本代表監督だ。
様々なエピソードを抱える日本ラグビー界の重鎮だが、
最も代表的なものの1つが、
1971年のイングランド代表初来日での死闘であろう。
この時、極東の日本代表は「ラグビー母国」イングランドと2戦交えた。
初戦は、9月24日 花園ラグビー場。
結果は、日本19-27イングランド。
第2戦は秩父宮ラグビー場。
結果は、日本3-6イングランド。
特に、「9月28日」秩父宮の第2戦、
スタンドに入りきれないファンが
タッチライン際まで溢れ出て観戦していたほどの異様な熱気の中、
試合前のロッカーで行われた大西氏の
「水杯」(みずさかずき)のエピソードは伝説だ。
(このエピソードについてはここでは省略。以前紹介させていただいた、当事者の1人、元日本代表、現伏見工業ラグビー部総監督、山口良治先生涙する・・・を参照されたい)
そんな中、この日本ラグビー界の伝説を目の当たりにし、
少し別の角度から「世界を知った」1人のラガーマンがいた。
「天理高校ラグビー部主将 丹生谷直志選手」だ。
********************************
松山聖陵グラウンドで選手たち走る姿に目を配る丹生谷監督。
遠くを見つめながら一言、
「テストマッチが終わって選手たちは、うちの学校に来たんですよ」
もう40年近く前の話だ。
丹生谷監督は愛媛の重信中学校を卒業後、
奈良の天理高校に進学しラグビーに出会った。
花園ラグビー場での初戦を戦い終えた
「イングランド代表」と「日本代表」の選手たちが向かった先。
それは、奈良県の「天理大学」だったという。
大西鐡之祐監督が奈良県出身だったためもあろうが、
高校・大学と日本のラグビー界をリードし、
すでに国際交流も盛んに行っていたことも関係あるようだ。
そして学校では、懇親会が始まった。
試合後、お互いの健闘を讃え合うのは今も昔も「ノーサイドの精神」。
パーティは華やかに、賑やかに進んでいく・・・はずだった。
ところが、この日、会場で「ウエイター係」に勤しんでいた丹生谷選手は
目の前の光景に驚きを隠せなかったという。
「ジャパンは試合で、全精力を使い果たしたんでしょうね。
選手たちはもうパーティの途中から椅子に座って
ぐったりしていました。
中には部屋に戻ってしまった選手もいたはずですよ」
さらに続く。
「逆にイングランドの選手たちは、どんどん食べて飲んで・・・
大騒ぎですよ。
で、途中選手たちが私たちに何を聞いてきたか!
『ここにプールはないのか?』
で、場所を教えたら、選手がそこで泳ぎ始めたんです、
バシャバシャと!」
そして翌朝、もうイングランドの選手たちはケロッとして
移動していきましたよ」
ラグビー母国の「威厳」と「解放」を目の当たりにした丹生谷選手。
「高校ラグビー日本一男」が
世界のスケールの違いを肌で感じた1日だった。
ところが、その4日後の9月28日。
日本はその荒くれ男達をノートライに封じた。
日本のタックルは突き刺さり、
1度たりともゴールラインをまたぐことを許さなかった。
この時のことを、日本代表7番山口良治選手はこう表現している。
「いいかい高橋君、レフリーの笛が鳴った。
そうしたらね、終わってたんだよ・・・」
「集中の極み」とはこういうことなのか。
体の小さな日本人が、体の大きな外国人を倒すには
日本独自の「スタイル」を確立しなければならない。
大西鐡之祐氏の元、80分間はあっという間に過ぎた。
そして当時の丹生谷選手は知る。
どんなに劣勢でも「スタイル」=組織の意識統一があれば
戦えることを―
*******************************
世界と日本と自分自身のラグビー観に大きな影響を与えたあの日から
38年後の2009年。
松山聖陵ラグビー部を指導して31年。
監督として10年目の節目を迎えた丹生谷監督。
自分たちの「スタイル」を貫くのみ―
1回戦だろうが決勝だろうが、何も変わらない。変える必要もない。
それが自分たちの「信じる」形ならば・・・。
丹生谷監督は決勝戦を前にこう語る。
「普段から、人生の目標はトップに立つことだということを
露骨に言い過ぎている所もあるんですけど、
やはり頂点に立つためには、
それだけの厳しさ苦しさをもって接しなければならない」
そして―
「もし負けたときには、相手がそれ以上のことやったと・・・」
******************************
山下レフリーが一拍おいて、大きく息を吸い込んだ。
そして秋の西日に包まれる球技場の芝に
ノーサイドの笛が鳴り響いた。
三島41-19松山聖陵
丹生谷監督の戦いが終わった。
チームは3年計画の3年目だった。
去年の雪辱を果たすことが出来て嬉しいです
前半押されていましたが
最後まで皆があきらめることなく
一丸となって最後まで戦うことができたので
勝利につながったと思います
三島高校ラグビー部 井上直弥 主将
(2009年11月15日)
(ノーサイドの笛が響き―) 全国高校ラグビー県大会 準決勝
三島15-10新田
第1シード三島優位の予想を
第4シード新田の出足鋭く突き刺さる「タックル」が粉砕。
番狂わせも時間の問題と思われた。
しかし後半24分、
三島がラックからの連続タテ攻撃から同点トライ。
さらに後半ロスタイムに逆転のトライ。
ラスト6分の三島フィフティーンを動かしたのは
去年の決勝戦の涙だったのか・・・。
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後半の最後の1分が
ものすごい厳しかったですけど
粘り勝ちしたので嬉しいです
絶対、勝って花園に行きます
松山聖陵ラグビー部 田中史也 主将
(2009年11月15日)
(ノーサイドの笛が響き― その2) 準決勝 第2試合
松山聖陵36-31野村
前半24-5と松山聖陵リードで折り返した後半、
野村の猛追撃は圧巻。
最大24点差を、3連続トライなどで一気に5点差に。
その後、聖陵が1本返すが、野村も後半ロスタイム1本返す。
そしてラストワンプレーにかけた野村だったが・・・
辛くも10年ぶりの決勝進出を決めた聖陵フィフティーン。
野村フィフティーンの思いも胸に
花園まであと1つ。
「明日から
また厳しい練習するから、
覚悟しておけよ!」
八幡浜高校ラグビー部 万代道也監督
2003年、松山東高校ラグビー部の主将だった万代監督。
抜群のキャプテンシーでチームをまとめ、
12年ぶりに四国大会Aブロック優勝を飾った。
試合直後のインタビューで万代主将は涙と笑顔でこう語った。
「高校に入ってラグビーする気はなかったんですけど、
本当に入ってよかったと思います。
みんなにありがとうとお礼を言いたいです。
ラグビー大好きです!」
あれから6年、
愛媛の高校ラグビー界に『監督』として復帰し、
全国高校ラグビー大会県予選の1回戦で初勝利をあげた万代監督。
選手に伝えたい言葉は?と尋ねると
笑顔でこう口にした。
扇の要は手に隠れて見えない。
しかし扇を支えているのは見えない部分だ。
その見えない部分でキャッチャーは、
非情な結果と常に隣り合わせだが、それが醍醐味だ。
そんな瞬間が訪れたのは、
四国高校野球愛媛県大会 3位決定戦 済美-野村。
局面はこうだった。
**************************
2対2の同点。9回ウラ、済美の攻撃。2アウト2塁。
打者は5番の喜井。
野村のピッチャーは先発、エースの市川。
2塁ランナーが帰れば済美のサヨナラ勝ち・・・。
必要なのはアウト1つ。
**************************
この日、済美の5番喜井はここまで4打数ノーヒット。
フライが2つ、内野ゴロが2つ。
さらに打球の行方はサード、ショートのみ。
野村の市川の緩急にタイミングはまだ合っていない。
打ち取れる確率は高いだろう。
しかし1塁が空いている。
歩かせてもよい。
すると勝負は6番の山下か。1年生だ。
しかし注意すべきは「済美の」1年生だ。
しかも1年生でベンチ入りしているのは2人だけ。
「選ばれし」1年生だ。
この試合は途中出場。
そして6回の初打席、レフトフェンス直撃のツーベースヒット。
しかもカウント2-0からファウル2球を絡め、
2-3まで粘っての一撃だ。
さらに8回の第2打席は、フォアボール。
しかしカウント2-0から、ファウルで粘ってのフォアボール。
野村の市川の緩急に合っている。
野村のキャッチャー井関の頭に
以上のことが瞬時によぎる。

そして井関。
「喜井はイヤな感じがしました」
分かる。
ここまでノーヒットのバッターは開き直っていて危険だ。
まして5番バッター、不調とはいえクリーンアップ。
そしてなによりも彼らは「済美」だ。
終盤見せる驚異の粘り、集中力は並ではない。
そのチームのキャプテンが「喜井」だ。
井関は振り返る。
「ベンチの監督さんも歩かせるということだった・・・」
結果、野村バッテリーは喜井を「敬遠」した。
これが良かったか、悪かったかは関係ない。
「敬遠という決断」は最大限尊重されるべきだ。
問題は次をどうするかである。
迎えた6番、1年生の山下。
「打気にはやる」バッターに「初球ボール」はセオリーだ。
しかし、2球目―
済美の1年生山下の打球はセンターの右を一直線に抜け
サヨナラタイムリーとなった。
井関は振り返る。
「この試合1番の、気持ちのこもったボールだった・・・」。
あえて悔やむならこの1球か・・・。
力んだ分、ボールは高めに浮いていた。

試合後、キャッチャー井関は悔し涙を流し、
唇をかみ締めながら言葉を搾り出した。
「次の夏は、絶対に甲子園に行きます」
局面を分析し、先を読み、次の1球を「決断」する。
非情な結果と常に隣り合わせだが、
非情な結果は「経験」として刷り込まれ
次の局面では強力な武器になる。
秋の四国大会に限りなく近づいた2009年10月11日。
夏まで、9ヶ月。
野村から目が離せない。
***********************
秋の四国高校野球愛媛県大会 3位決定戦。
済美3x-2野村
***********************
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