
(前回に続く)
「だから愛媛FCが困っている」。
もちろん「入場者数」のこと。
愛媛FCのニンスタでの平均は現在「3907」人。
MAXで5653人。
下は2521人にまで下がる。
J2の平均が「6133」人。
愛媛は、18チーム中「15位」だ。
「スタジアムを松山市内中心部へ」
そんな声の「理由」や「経済効果」などは
もういまさらだ。
ただ、気運が一向に表立って盛り上がってこないのはなぜか・・・
もしかすると愛媛県民の深層心理に、
「新たなスタジアム」=「坊っちゃんスタジアム並みの施設」
・・・という感覚がないだろうか。
ない?ホントに?
現在、集客絶好調、広島新球場の「マツダスタジアム」。
前回記したように建設費は「坊っちゃんスタジアムより安い」。
坊っちゃんスタジアムは、かなり「立派な」球場なのだ。
こうした中、
「2万人収容のサッカー専用スタジアム」。
J1規格を満たすためにはこれが基準線だろう。
しかし今、愛媛FCサポーターが望んでいる
スタジアムの規模を尋ねてみて欲しい。
「なんなら、仮設スタンドでもいいのでは・・・」
そんな声も決して少なくない。
むしろ多いくらいだろう。
ホームゲームにやってくる「コアファン」は、約2000人。
この方々は、すでに自分なりの楽しみ方を心得ている方々だ。
アクセスの悪さよりも、
2週に1度やってくる「非日常空間」を満喫している方々だ。
そんな方々でさえ口にする「市内中心部にスタジアムを」という思い。
そこにあるのは・・・
「この素晴らしさを1人でも多くの人に教えてあげたい!」
そんな思いに集約される。
「愛媛」という名の下に必死になる選手たちに自分を重ね合わせ、
「誇り」を胸に一緒になって戦うことの楽しさ、喜び、充実感・・・
間違ってもサポーターという「限られた人」のために
利便性を良くしてくれと訴えているわけではない。
「中心部にあれば、これまで以上に楽に行ける」とか、
「終わったあとに飲みにいける」などという
一次的な欲求などではない。
東京はオリンピックでひとつになろうとしている。
愛媛は街中にみんなで作ったささやかな「サッカー専用スタジアム」で
ひとつになれはしないだろうか。
「聖地」とは、箱の大小で決まるものではない。
そこに集まってくる人が紡ぐ情熱の歴史によって、
いつしか「聖地」となる。
試しに!
市内中心部の広場に100m×70mの四角を書いて、
愛媛FCイレブンに来てもらうといい。
そこから、何か始まるかもしれない。
そう、1個のサッカーボールも忘れずに・・・
新広島市民球場。
マツダ ズーム・ズームスタジアム広島。
略称「マツダスタジアム」
初めて行った。
面白いスタジアムだ。
メジャーのスタジアムをイメージして
内野が天然芝で、スタンドの勾配も緩やかで、
ファウルグラウンドが狭くて選手が間近に見られて・・・。
そしてご存知のとおり
熱烈なファン向けの「パフォーマンスシート」をはじめ、
「ボックスフロア」に「パーティフロア」
「ブルペンレストラン」に「のぞきチューブ」などなど。
名前だけでもワクワクする。
さらに特徴的なのが左右非対称の造り。
レフトスタンドの中央付近がぽっかり空いているのだが
なんでだろう~とぼんやり眺めていると
突然「シューッ」と視界に飛び込んできたのは「新幹線」。
これはレフト後方が
「山陽本線」「山陽新幹線」の軌道になっているためだが
マツダスタジアムでは
その設計上の制約を逆手に取っているのがまた憎い。
なんとJRの乗客も球場の観客と見たてて、
車窓から試合をチェックできるということだ。
この独特の球場設計を担当したのは
「環境デザイン研究所」。
ここは、あの北島康介も何度も泳ぎ、日本選手権の会場としても有名な
「東京辰巳国際水泳場」などを設計している。
実は私もここによく通っていたのだが、
外から見ても中に入ってもなかなか楽しい場所である。
この日は、広島―阪神3連戦の初日。
結局私は、カープの試合前練習中だけの滞在で非常に残念だったが
RCC中国放送のスーパー実況アナウンサー「一柳さん」が
実況担当日にも関わらずアテンドをしてくださった。
深く感謝。
で、スタジアムに話を戻すが
あらためて驚くのは・・・
「マツダスタジアムの建設費は、坊っちゃんスタジアムより安い!」
・・・という事実。
坊っちゃんスタジアム 118億円
マツダスタジアム
本体建設費 90億円+22億円
→ロッカー、スポーツバー、球団事務所等
カープファンでぎっしり埋まるスタンド。
ビッグなスコアボードなど、
完全プロ使用のこのスタジアムが
なぜ・・・坊っちゃんスタジアムより安いのか。
それはスタジアム内のプレスルームに向かう道中に一部判明した。
「これで完成・・・なんですよね」
ファンの目に触れないような通路などの天井、壁などは
極力簡素な造りになっていたのだ。
エアダクトなどはむき出しの所が多く、
構造上問題ないところは「壁」というよりは「仕切り」に感じる。
実際、様々な工夫で建設費を抑制したことこそ「メジャー仕様」なのだ。
坊っちゃんスタジアムの通路や壁、
ロッカー、会議室などを思い浮かべるとその差は歴然だ。
そう「坊っちゃんスタジアム」はあらためて「立派な」球場なのである!
だから!「愛媛FC」が困っているのである!
(次回、聖地の条件は「箱」≦「人」 につづく)

今から5年前。
日本初の独立リーグ、四国アイランドリーグが開幕する3ヶ月前のこと。
福岡ヤフードームの3塁側ダグアウト前には
2重、3重の円陣が出来ていた。
最終トライアウトの受験者たちだった。
その輪の中心には、石毛宏典さん。
この日、石毛さんは「11分間」に渡り思いのたけをぶちまけていた。
その中にあった一節―
「なぜ打てないんだろう。
どうしたら打てるんだろう。
嬉しい、悔しい・・・その都度現れる感情の起伏。
その振れ幅がこれぐらい(指先程度の)奴と
これぐらいの奴(両手を広げた位)。
それが大きい奴ほど、人間的に魅力がある。魅力がある。
そこに人間臭さが出てくる。
それを、お客さんは見に来るんだよ!
今、そういう奴が少ないから
プロ野球の人気が落ちてんだよ!」
あの瞬間、「7872人のため息」を君はどう聞いただろうか。
何を感じただろう。
忘れてしまいたいが、
一生忘れられない瞬間になったに違いない。
しかしスタンドのファンが見たいのは、
そこから君がどうするか― その一点。
なぜならファンは、君の背中に自分を重ね合わせているからだ。
エラーを見て、スタジアムを去った人を追う必要はない。
立場は違えど、あの瞬間を共有した者同士が
次に向かって何ができるか―
あれから48時間が過ぎた。
君はもう、きっと動き出しているに違いない。
シーズンはあっという間だ。
しかし必ず、何度か成長のチャンスは訪れる。
それが「今」であることを疑う余地はない。
愛媛FCのキャンプ地は「鹿児島」だ。
鹿児島は「1番」が好きらしい。

「桜島」である。
いわずと知れた活火山。
錦江湾からそびえ立つ堂々たる姿は国内屈指の存在感を湛える。
有史以来、大噴火3回。
この日も噴火した。
火山灰の行方を鹿児島県民は、
テレビ局の「桜島上空の風向き予報」で確認する。
いつ、噴火するか分からない活火山が目の前にある生活。
それが日常。
なにも問題ない。
ついでに桜島大根の大きさは「世界一」だ。
ギネスブックにも認定されている。

「桜島フェリー」。
鹿児島市内中心部と桜島を15分で結ぶ。
昼間10分間隔、24時間休みなし。
年間利用550万人、車両164万台は国内屈指の数字だ。

「西郷隆盛像」である。
鹿児島空港の目の前、西郷公園にそびえ立つ。
鹿児島に到着した愛媛FCイレブンと目が合ったはず。
ただ正式名称は、「現代を見つめる西郷隆盛像」という。
高さ10.5メートル。
実在の人物像としては日本最大だ。
「蒲生のクス」だ。
場所は鹿児島県蒲生町。
愛媛FC 対 城南一和への取材の道中に発見。
国指定特別天然記念物に指定されている。
樹齢1500年。
根廻り33メートル。
高さ30メートル。
「日本一」。
文句なし。

日本一に驚いていると、今後は世界一だという。
薩摩川内市の竜仙郷。
直径13メートル。
名前を「世界一郷水車」という。
「蒲生のクス」は大地から与えられた日本一。
水車は明らかに1番を 「狙い」 に行っている。

「叫びの肖像」
2004年8月21日 長渕剛桜島オールナイトコンサート。
2006年3月19日に記念碑建立。
吠える先には桜島の噴火口。
日本一叫び続けている像である。
思いは、マグマより熱い。
「1番」を抱え、「1番」を守り、「1番」を狙う鹿児島。
私はどうだ?
君はどう?
そして愛媛FCイレブンは・・・
2008年が終わろうとしています。
今年も、様々な場面、場所で
多くの方々に大変お世話になりました。
この場を借りて、誠に有難うございました。
かつてない不況に冷え切る社会の中、
スポーツ界でも名門クラブが次々に廃部に追い込まれるなど
状況は深刻です。
もちろん県内でも愛媛FCを筆頭にマンダリンパイレーツなど
その足元を固めていくのは容易なことではありません。
ただ、スポーツはどんな世の中にあっても
社会を明るく、元気にし、感動と生きる勇気を与えてくれます。
灯を消してはいけません。
こんなときだからこそ、知恵と汗が必要です。
2009年は愛媛スポーツ界の勝負の年。
私も、足場を固め、来るべき時に備えたいと思います。
来年も、どうぞよろしくお願いします。

冬の夕景 Photo by hiroyossy
「ラグビーで流れを変えるのはやはりタックルですよ」
そう一言つぶやいて西の空に目をやった1人の青年監督は
眩しそうに目を細めた。
2008年11月21日。午後5時過ぎ。
午前中からの雨が上がり西の空の雲の切れ間からは
青空が顔を出し始めていた。
この1時間前、私は新田高校グラウンドに到着した。
3日後の大一番に向けての取材だ。
全国高校ラグビー大会愛媛県予選決勝。
3年ぶりに花園に王手をかけたチームの戦力を
あらためて確認するためだった。
ところがグラウンドに誰もいない。
(3日前だし、金曜日だし、他の部活はやってるし、
もしかして練習終わってしまったか・・・)
「・・・留守番電話に接続中です・・・・」
大西監督の携帯は2度、機械的に私に告げた。
「すいません、ここからグラウンドは見えないんです・・・」
さらに代表電話の向こうの方にも食い下がってしまった。
ラグビー部が、きょう練習していたかどうか、
いないなら今、大西監督はどこにいるのか・・・
「ちわ~っす」
いた。
選手たちの元気な声が響き始めたのは午後5時を回った頃だった。
ミーティング中だったという。しかし、1時間も―
「いや~、長くなってしまいまして」
大西監督だ。31歳、監督3年目。
「選手たちといい会話ができました。自然な感じの」
聞きたい。サマリーだけでも。
「ん~、自分たちにとってやられてイヤなプレーは何だと思う?って」
やられてイヤなこと?
「それは、相手にとっても同じこと。
そこを突けばいいんじゃないか?って」
イヤなことはいっぱいあったのだろう。
少なく見積もっても半分の30分間は
自分たちの弱点をさらけ出しているはずだ。
しかし今の今まで考えたくもなかった自分たちの弱点に正対すると
かえって気持ちがすっきりするかもしれない・・・
なによりも「己を知る」ことは、敵を倒す上での絶対条件だ。
このチームが「このチームらしく」戦うために―
「明らかに三島さんの方が力は上ですよ。
でも、3度同じ相手に負けるわけにはいきません」
では、どうする。
「タックルで勝つ。タックルで前に出る。
最後は気持ちが強い方が勝つ。そう信じています。」
照明塔にはまもなく灯がともり、実戦練習が始まった。
土のグラウンドにはあちこちに「水溜り」。
選手たちのジャージはあっという間に色を失い敵か味方か
見分けがつかなくなった。
*********************************
3日後、雨。
決勝戦の試合開始を告げるホイッスルが鳴った。
花園切符をかけたファイナル。
新田のキックオフ。
ボールの落下点目指してなだれ込んでいく
濃紺にブルーラインのジャージ。
目を引く出足の鋭いタックル―
それは30分間休み無く続いた。
新田は第2シード。三島は第1シード。
そこに至る経緯はこうだ。
1月の新人大会準決勝 ○三島32-7新田。このあと三島が優勝。
4月の四国大会県予選決勝 ○三島55-0新田。
6月の県高校総体決勝(10人制) ○三島24-7新田
つまり全部三島の勝ちだ。既に3冠達成。
この試合に勝てば去年の北条に続き4冠を達成することになる。
そして新田は今シーズン、三島に3連敗という事実。
ただ、最後の直接対決、県総体からは5ヶ月あまり・・・。
高校生年代の若者の吸収力からすると、
何かを身に着け、自信を手に入れるには決して足りない時間ではない。
もちろんそこには「気持ちの強さ」が必要になるが。
前半30分が終了した。7対0で三島がリード。
しかしわずか1トライ1ゴール差。
「新田にとってはもう、上等上等の内容ですよ」
実況席の解説、小山田眞也さんがうなる。
(大分国体少年の部監督、東予ラグビー部監督)
ハーフタイム。円陣の中央で選手を前にする監督大西良。
言葉は短い。迷いはない。
後半一気に勝負に出る覚悟を固める。
自分たちらしさを全面に出して―
*********************************
実は大西監督には、苦い思い出がある。
新田OBの大西監督は、FWフッカーとして
現役時代93、94年度と2度花園に出場した。
2回戦で敗れ、正月を花園で迎えることは出来なかったが
その後、169センチ80キロの小柄なファイターは
法政大学でも活躍し、4年生の時にはキャプテンに抜擢された。
この年、法政は強かった。
新田OBの坂田正彰選手(元日本代表~サントリー)が
キャプテンを務めた94年、関東大学ラグビー対抗戦で
2位になった法政は、その後、次第に順位を落とした。
しかし大西選手の入学以降、法政は再び息を吹き返し
98年11月22日の秩父宮に乗り込むことになる。
そして大西キャプテン率いる法政は
「関東学院大学」との死闘を制し5年ぶりのリーグ戦優勝を飾った。
○法政大 34-32 関東学院大
しかし話は続く。
その1ヶ月後の大学選手権。
法政は1回戦で「日体大」を91対12で圧倒し
2回戦で「早稲田」との対戦が決まった。
しかしここでキャプテン大西を悩ます事態が発生した。
実は日体大戦の大勝は、主に「バックス展開」によるもので、
その圧倒的な勢いに、首脳陣やOBらからは
「次もバックス展開で行け!」という要望が多数寄せられた。
ところがキャプテン大西は全く逆の考えだった。
「このチームが本当に自信を持っているのは『フォワード』。
やはり自分たち本来の姿で勝負するべきだ」
そして98年12月27日。
晴れ渡る年の瀬の秩父宮での「早稲田」戦当日、
大西は決断した。
「もう1試合バックスで勝負して、
次の準決勝からフォワードで行こう・・・」
確かにこの年、早稲田は本来の強さはなかった。
この時の早稲田には、センターに啓光学園出身の山崎勇気(4年)という
スター選手がいたが
シーズン前の交流戦でも、黒星ながらわずか4点差。
なによりも法政には勢いがあった。
ところが結果は―
法政大●16-20早稲田大
バックス展開は早稲田の出足の良さに寸断され、
最後はインターセプトによるトライ1本差で法政は涙を飲んだ。
あれから10年―
母校の監督に就任して3年目。
「あの日のことは、今でも反省しているというか、
後悔しているんですよね。先を見てしまったというか・・・」
*********************************
今シーズンを締めくくる花園予選決勝も残り30分。
得点は0-7で三島がリード。
しかし、監督大西に迷いはなかった。
新田らしさとは何か、自問自答するまでもなかった。
タックルで勝つ。タックルで前に出る。
そして勝負に出た。
後半 1分、まずキャプテン11番増田がトライ。
後半 7分、再び増田のトライで逆転。
後半13分、6番徳田がPG成功。
後半25分、12番逢坂がトライ。
結局、後半怒涛の攻めを繰り広げた新田が優勝。
3年ぶり44回目の花園切符。
監督大西は、初めて男になった。
決勝
○新田 24-12 三島
そして5分後。
監督大西は、泣いた。
これまでのラグビー人生を脳裏に浮かべ、
長い沈黙のあと全ての思いは嗚咽に押し出され、
大粒の涙となって芝の上に落ちた。
「最後まであきらめない気持ちが出たと思います」
搾り出すような声だったがもう一言付け加えた。
「新田高校らしく、『タックルで前に出る』というのを
全国で示せたらいいかなと思います」
全国高校ラグビー大会愛媛県予選
優勝 新田高校ラグビー部
監督、大西 良 31歳。
試合後、ニンジニアスタジアムでは雨があがった。
雲の切れ間からは10年前の秩父宮と同じ、青空が覗いていた。
「宙に舞う沖監督の表情を正面から撮りたかった」
ただそれだけだったのですが・・・
全てのテレビ局の胴上げ映像にカメラマンとして映りこんでしまいました。
この度は大変お騒がせしました。
それにしても、この時私の頭の中では
この4年間の出来事が走馬灯のように駆け巡っていました。
目の前の選手たちと、
チームを去っていった選手たちが
何度も何度もオーバーラップしていました。
今回の優勝は
パイレーツの1期生、2期生、3期生、そして4期生が
束になって勝ち取った優勝です。
2005年4月1日、マドンナスタジアムで
愛媛マンダリンパイレーツとして25人の選手が初練習を行って以来
2008年9月21日まで
開拓者たちの思いが1本の道となって
しっかり繋がっていたことに感動を覚えます。
選手が、スタッフが、球団職員の方々が
これまでこの愛媛で流してきた汗、そして涙・・・
それらがどれだけ県民の生きる糧、心の支えになり、
なによりも野球ファンを楽しませてきたことか。
どうぞこれからも
迷うことなく走り続けてください。
[パイレーツ優勝を支えた方々]
木谷智朗さん、坂田晋一さん、田坂賢一郎さん、浦川大輔さん、
木村吉久さん,小山内大和さん、西山道隆さん、江村卓也さん、
前田真宏さん、豊田光さん、赤井慎太郎さん、広田嘉明さん、
李 鐘ひさん、今村遼太さん、荒木康一さん、金田徒至さん、
中谷翼さん、林真輝さん、金輪圭祐さん、日野博幸さん、大下敦司さん
坂下素直さん、河野光雄さん、安達輝誠さん、DJ(益本大祐)さん、
久保井雄慈さん、マサシ(増田真士)さん、藤谷雄也さん、
松坂恭平さん、伊藤大輔さん、溝渕一樹さん、小田島一樹さん、
吉田臣希さん
梶本達哉さん、荻野優二郎さん、山本紘平さん、松本 悠さん、
竹村優児さん、外間修平さん、グレアム義季サイモンさん、町田知之さん
そして、写真の中のあなた達!
本当に、初優勝おめでとうございます。

暑かった夏が過ぎ、
風が北よりに変わるころ
またこの季節がやってくる・・・
先日、13年ぶりに!「風」になりました~
海水浴シーズンのあと
少し寂しくなった海ですが
ウインドサーフィンは
これからがシーズン本番です。

~松山市・和気浜にて~
「全部出し切ったんやないのか~っ!毅然とせいっ!」
試合後のベンチ裏通路。場所は坊っちゃんスタジアム。
声の主は、大野康哉監督。
そう、今から1ヶ月前の7月21日、
今治西は5季連続甲子園の夢が絶たれた。
誰もが今治西の優位は揺るがぬと思い、
なによりも選手自身が勝利を信じて疑わなかっただけに
その敗北のショックは相当なものだったことは想像に難くない。
そして冒頭の言葉である。
もちろん泣きじゃくる選手たちへ
大野監督流のねぎらいの言葉であるのは間違いないところ。
ただ、「全部出し切る」とは一体どういうことなのか。
負けたこと、ありますか―
一般的にスポーツ競技で「負ける時」というのは、
相手によって、敵によって、ライバルの力によって
自分の力を出せないよう相手にうまく立ち回られる場合が多い。
つまり、「本来の力なんか全く出し切らせてもらえない」状況だから負ける。
逆に、勝つためには「相手に力を出し切らせないようにしていく」のが常道だ。
なにも競技の最初から最後までずっと優位に立ち続けることではない。
それはとても難しい。
明らかに優位に立てるパートは、何も考える必要もない。
問題は「互角の勝負」にならざるを得ないパートだ。
そこで考えなければならないのが
「少しでも相手の調子を狂わせる方法はないか」。
その手法としては、「腕力」だったり「奇襲戦法」だったり、
はたまたスタンドの「大声援」だったり、それは本当に様々だ。
ただ最終的にはやはり、「目標を絶対に達成してやろう」という
「強い気持ち」が必要になってくるであろう。
結局、これを「全て」のエネルギー源としてやっていくしかない。
では「全て」とは何か。
競技中のパフォーマンスのみを指すわけではない。
・試合運び、レース展開などのイメージ作り、その裏づけ理論。
・リカバリー方法。相手の出方、リードされてから逆転への理論展開。
・ケガ、故障を負ったまま、出場せざるを得ない場合の心と体のバランス。
・競技者が同士が互いの戦術等を出し切ってもなお勝負が決しない場合、
残された最後の領域としての肉体的強さ。
こうした様々なチェックポイントを日頃から準備していって初めて
「土俵の上に立つ」権利があるといえる。
そして初めて、相手の調子を狂わせるような
プレッシャーを掛けていくことも可能になる。
「強い気持ち」は欠かすことはできない。
星野仙一監督は「強い気持ち」を選手から引き出すプロ中のプロだ。
ただ、北京オリンピックの舞台で
いざ強い気持ちを持った選手が目の前に顔を揃えたとき
それだけで満足してしまったことはなかっただろうか。
勝てると思い込んでしまったことはなかったか。
「選手を信じる」という言葉によって
相手チームの選手が胸に秘める「強い気持ちの分析」を
「やや」怠りはしなかっただろうか。
まさかそんなことは無いと思うが、
専属スコアラーが分析した精緻なデータを
心のどこかで軽んじてしまってはいなかっただろうか。
プロ選手のプライドや経験則から
「やはり投げてみなけりゃ分からん。打ってみなけりゃ分からん」
という気持ちからデータを軽んじてはいなかっただろうか・・・
プライド結構。それが日本の野球文化を支えているのだから。
ただ世界の進化のスピードは年々加速度を増している。
そのことをバッターボックスで、
あるいはマウンドで実感しているようではまずい。
オリンピックが終わった。
金メダルを取った人の話は本当に興味深く、そして驚かされる。
北島康介と平井コーチはレース前日まで
フォームの改造、確認を繰り返していた。
そこには「プライド」などというそんな雑念は全く無い。
あるのは「どうしたら金メダルを取れるか」その1点のみだ。
考えて考えて、最後に出した答えが「勇気をもって、ゆっくり泳ごう」だったという。
陸上男子400mリレー。
朝原をはじめとする4人がレース直前まで取り組んでいたのが
「バトンの受け渡し」。
アンダーハンドパスで減速要素を極力減らす。
この「執念」あってこその銅メダルに人々は心を揺さぶられる。
ボート男子軽量級ダブルスカルの武田大作選手も、
残念ながら13位に終わったが、
レース直前までオールの入水の位置と出水の位置を工夫し
そのフォームの完成に全力を注いでいた。
「入賞はいらない。6位はいらない。金メダルしかいらない。
でもこのフォームをマスターすれば絶対に速くなるって分かっているから
ギリギリでも新しいことにチャレンジしたい。
それはアスリートの本能だと思う。」
そう武田は言っていた。
「金メダル」に向かって「強い気持ち」を持って「全部」「出し切る」
一見、精神論を述べたような言葉でも
捉え方を誤ると結果は大きく変わってくる。
答えを知りたいわけではない。
考えたかったのだ。
* * *
目の前にある色紙にはこうある。
「故障無く マラソンのスタートラインに立つ」
土佐礼子さんの言葉だ。
去年9月、世界陸上大阪大会で銅メダルに輝き
翌年の北京オリンピックへの抱負を問われた土佐さんは
色紙にこうペンを走らせた。
その時は、正直ピンとこなかったのを覚えている。
「粘って、金!」
「泣いても金!」
そんな言葉を想像していた。
しかしこれが、土佐さんにとって
どれだけ意味深く、
どれだけ難しく、
そして重要なことだったのか―
「故障なく・・・」
もしそんな事が可能ならば、素晴らしい結果が待っているのに!
どんなレースをするかとか、メダルだとか、
そんなことは、故障さえ無ければ、痛みさえ無ければ
おのずと結果はついてくるはずなのに・・・
自分を知り尽くしているからこそ、
「故障無く」スタートラインに立てさえすれば・・・
究極の願いだったのだろう。
***********************
北京オリンピック 女子マラソン
土佐礼子選手 途中棄権
***********************
その要因のひとつとして上げられているのが「外反母趾」。
私の母もそうだから良く知っている。
足の母指球の外側が外に張り出し、親指の先は斜め内側を向いている。
やはり日常生活でもそこに疲れが溜まりやすい。
ましてや、走るとなるとその苦労は想像に難くない。
しかも走る専門家となれば、これはとっても有り難くない症状である。
土佐さんは、その外反母趾の影響で
過去に左足の指3本を折っている。
さらにその左足をかばって、右足の指も折っている。
「だから、もう折れないんじゃないかな」
土佐さんは笑いながら私に語った。
強い。
そんな自分の足と相談しながら競技を続けてきた土佐さん。
だから「粘り強く」ならざるを得なかったともいえよう。
しかし、どこの世界に
激痛を抱えながら「25キロ」も走る人がいるだろうか。
あの姿に比べたら、世界陸上大阪大会銅メダルのラストの追い上げは
当然のようにも思える。
土佐さんからすれば(こんなにいい状態で走れている時に、
5位のまま終わるのはもったいない)
そんなところだったのかもしれない。
しかしなぜ今回、「故障あり」でも
マラソンのスタートラインに立ってしまったのか。
それは、「なぜレース直前にケガをしてしまったのか」、
「ケガを回避することは出来なかったのか」などということではない。
「ゴールできないだろうと予測される中で、なぜ走ることにしたのか」
考えたいのはそこだ。
人間にはやらねばならない時があるということなのか。
去年の世界陸上前に夫の村井啓一さんは言った。
「自分のために走って欲しい」
そう、土佐さんはきっとこれまで「誰かのために」走ってきたのだろう。
家族、ファン、応援してくれる人、地域の方々、
さらに指導者、スタッフ、そして愛する人のために・・・。
また、年末恒例の全日本実業団対抗女子駅伝では
自分がエントリーしてなくても
荷物持ちなどチームの裏方に徹する姿は決して珍しくはない。
土佐さんとはそういう人間だ。
「自分のために」
「誰かのために」
どちらのタイプが人間の歴史に名を残してきたのだろうか。
人間には「無理を承知でチャレンジする時」があるのだろう。
そして運が味方して成功する場合もあれば
不運にも失敗するときがある。
******************************
突然だが、瀬戸町出身の冒険家、河野兵市さんの言葉を思い出す。
「支援してくれている人のことを思ったら
やっぱり辞められなかったですよ」
97年、日本人初の北極点単独徒歩到達を果たした河野さん。
「きょうは誰の日と決めて、その人のために歩いていました」という
言葉はとても印象深い。
カナダのワードハント島から北極点を目指し順調に歩みを進めていた。
しかし北緯88度付近で厳しい乱氷帯に遭遇すると、
行く手を阻まれ、流され始め、さらに激しい嵐に足止めをされ進退窮まった。
「これまでか・・・」
河野さんは救助要請をする覚悟を決めたという。
しかしその時、河野さんの手元には、
故郷瀬戸町の川之浜小学校の児童たちが寄せてくれたたくさんの手紙があった。
「あきらめないで、がんばってください」
結局、無理を承知で歩き始めた河野さん。
すると突然、霧が晴れ、視界が開け、一気に勝負をかけた。
「北極の扉が開いた気がした」
運も味方し見事、偉業を成し遂げた河野さん。
しかし、2001年、北極点から瀬戸町へ向かった次の旅の途中、
北極海の氷が突然割れ、冷たい海に転落し、還らぬ人となった。
*********************************
土佐さんは過去に
奇跡が起きたレースを経験していなかっただろうか。
北京では運が無かった。
それだけのことかもしれない。
ただ・・・それでも土佐さんは痛みに顔をゆがめ、涙を流しながら走った。
そしてその衝撃的な姿を私たちは、まばたきもせず、
中継画面の中に捉え、豆粒大になっても見続けた。
なぜ、土佐さんは足の運びを辞めようとはしなかったのだろう。
なぜあの姿を、私たちに見せ続けたのだろう。
土佐さんは、北京オリンピックを
マラソン人生の区切りにする決意を固めていた。
だから、どんなレースになるにしても
「マラソンという競技そのもの」を表現したかったとも思える。
爽快感だけでない、達成感だけでもない、
人生にも例えられることの多い「マラソン」という競技を。
土佐さんは、なぜスタートラインに立ったのだろう。
そして自分はどうだ・・・
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